父の日に寄せて
6月の第3日曜日。
すでに始まっていた母の日にならい、父にも感謝すべきということから始まった父の日。
今日では、毎日が何かしらの記念日になっているが、日頃お世話になっている父親に対し、感謝の気持ちを忘れないためにもこのような記念日は必要だろう。
しかし私には感謝を伝える父はもういない。
「いつまでもあると思うな親と金」とよく言われるが、私にとってもその言葉は例外ではなかった。
今から約3年前。父は血圧が高く薬を常用していたものの、大病にはかかったことがなかった。しかし、風邪をこじらせ一向に良くならない日が続いた。
心配した母が救急車を呼び病院に運ばれたが、そこで下された診断は髄膜炎だった。命の危険もあるほどの重傷だった。
何とか命こそは助かったものの、脳は多くの損傷を受け半身不随になってしまった。
子供の頃の父は山のように大きく象のように太い手足をしていたが、ベッドの上で横になっている父はすっかり小さくなってしまい、手足も細くなっていた。
喉にはたんをとるための穴があけられた。以降父が亡くなるまでその声を再び聴くことはなかった。
もともとそれほど口数の多い父ではなく、帰省した時もあまり会話を交わすことがなかった。
まだまだ父は元気。いつでも会話ぐらいできると思っていた。だから父との会話がこういう形で終わるとは夢にも思わなかった。
私の父は自営で農機具の販売・修理を仕事としていた。
どこに行くにも作業服を着ていき、手の爪のところには機械の油が入り込みいつも黒かった。
仕事の合間をぬっては、授業参観や運動会といった学校行事にも顔を出してくれた。
どこで知ったのか部活の大会にも顔を出してくれたこともあった。
人がたくさんいても作業服の父はすぐに分かった。こちらが気付くと、にこっと優しく微笑む父だった。
休みの日は大好きな歴史の本を赤の色鉛筆片手に読んでいた。またお祭りが大好きで、お囃子を演奏するのが大好きだった。
祭りが近づくと家の中はテープレコーダーから流れてくるお囃子が聞こえてきた。
お祭りではひょっとこのお面をかぶり、祭りを見に来た子供たちを笑わせたりとひょうきんな一面もあった。
兄弟3人社会人になるまで、朝から晩まで毎日くたくたになるまで働き、3人全員を大学にまでいかせてくれた。後で知ったことだが、そのため貯金はほとんどなくなってしまった。
自分たちの老後の蓄えなど考えもせず、与えることしか考えなかった。そういう家計にありながらも、「子供にお金の心配はさせない」と一言も口には出さない父だった。
書き出せば父との思い出は尽きない。そんな父に親孝行できるようになったのは最近になってからで、こんな息子で父は幸せだったのだろうかと時折考えてしまう。
父の死から約2年。気持ちも落ち着き、この機会に父への気持ちの整理にとペンをとったが、書いているうちにいろいろな思い出が次々とよみがえり涙があふれてきてしまう。
梅雨が明ければ夏が、父の大好きだったお祭りの季節がやってくる。
2019年5月20日
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