「都の子」を読んだはなし。
都の子 著 江國香識
お風呂のおともを探し、本棚の前に立つ。広くないスペースには読んだ本と読んでない本、あるいは読みかけの本とが半々くらいで収まっている。
私は読んだ本をわりと早々に手放す。たまに未読のものでも手放したりする。ご縁があればまた出会うだろう、なんて気持ちで。だから完読したあとも手元に残っている本は、自ら縁をつないでおきたい本ということになる。
そのうち、江國香識さんの単行本が三冊あった。ずいぶんと疎遠になり、少なくとも5年は手に取っていなかった。
はたち前後の数年間、本当によく彼女の本を読んだ。小説、エッセイはもちろんのこと、書評や対談なんかも見つけては読んだ。
文章に絶えず流れる孤独の種類が好きだった。たとえばそれは、小さな女の子が庭のすみっこでひとり遊んでいるような、そうでなければ、生き物の気配のない透明で明るい大海のまんなかを潜水しているような。どこか心もとなくそれでいて離れがたい、親密で澄んだ孤独が。
本棚にあった三冊は、エッセイが二冊と絵本に関するものが一冊。真ん中の「都の子」を抜き取り裏表紙の解説を読むと、それは江國さんが現在の私の年齢の時に組まれたエッセイ集だったと知った。妙な偶然に、手に取ったそのままお風呂へ持ち込むことにした。
湯船の熱さに体が慣れたころ、ごく軽い気持ちで適当に開いたページから読みはじめた。砂漠のど真ん中にある動物園の話だった。ほんの数ページの物語を読みきる前に「あぁ」と唸りともため息ともつかない声が漏れた。
私はいつから、なにかの役に立たせる為に本を読むようになっていたんだろう。下心なく物語に親しむことを、いつから放棄してしまっていたのだろう、と。
生活を営むのは昔に考えていたよりずっと大変で、毎日はあのころの何倍もの速度で過ぎていくし、お金を使えば簡単に気持ちよくなれることも覚えた。
すぐに役立つもの、結果につながるもの、あつらえられた快感を選ぶクセが、これほどくっきりついているだなんて。
「あぁ」と思い知らされて、みぞおち辺りに微かな違和感が拡がるのを止められなかった。
数十冊とあった江國さんの著書は、少しずつ手放した。引っ越しや新しい本と引き換えにお別れしたものもあったが、そのほとんどを仲良くしていた年下の女の子にあげた。
足らないものを補うことで、大人というものになろうとしていた私にとって、澄んだ孤独へ親しむことはあまりにも心もとない作業だった。
ほんの一人きり荒野に立っているような、自由を内包する孤独は子供の特権のような気がしていたから。社会を生きながらそれを使いこなすのは、私には出来ないと高をくくった。そうして少しずつ忘れていったのだ。
それでも三冊残っていたのは、澄んだ孤独を本能的に求めていたからで、そこへ運んでくれる言葉の力を信じていたからじゃないかと思った。
こんな言い方は失礼かもしれないが、多分どの本でも良かったのだ。だって諳んじられるほど繰り返し読んだものだってある。残した三冊はいわばお守りだったのだろう。私の中からそれがすっかり無くなってしまわないように、と願のかけられたお守り。
そんなことを考えているうちに頭も体も洗うのが面倒になって、早々に脱衣所へ引き上げた。湿気で少し反り返った「都の子」の表紙をバスタオルで拭きながら、ほんの十年前の自分を懐かしい他人のように思い出したりした。