宇宙とものさし
幼稚園の頃、子供向けの百科事典が家にあった。
大判で全編カラー。十数冊が一組で、社会のあれこれが五十音順で紹介されていた。幼稚園児の私は、いつもそれを抱きかかえるようにして運び、床に拡げて眺めていた。
幼稚園で配布されるアンパンマンだらけの月刊誌や絵本にはない、頼もしい存在感がなによりも好きだった。
私のお気に入りは古代魚が住まう海中を描いたページであったのだが(アノマロカリスのデザインといったら!)幼時から小学生低学年程度を対象にした百科事典に【こだいぎょ】というトピックがあったのだろうか。それとも【きょうりゅう】を大きくぐるっとひとまとめにしていたのだろうか。
ともかく、幼い私はその日も事典を眺めていた。
ページ全体がほとんど黒に近い濃紺で、白く小さな点が不規則に散りばめられている。それらを背景に独特な柄や色の球体が並んでいて、要するに銀河とおかしな縮図率の太陽系惑星がずらり描かれていたのである。
【うちゅう】と呼ばれるその空間は私を強く惹きつけた。
どのくらいの時間眺め、書かれた日本語をどの程度理解していたのだろうか。曖昧な詳細をよそにはっきりと覚えているのは、荘厳な自然の摂理の前で、私に何かを知ることなどできない、私が何かを出来るはずもない、と感じたこと。その果てのなさに圧倒され、成す術もなく途方に暮れてしまったのである。
喜怒哀楽を言語化するのも拙い幼児期の話である。記憶を誇張・改ざんしている可能性もなくはない。けれど言語化には到底及ばない感情に近いところで、ただただ諦めるという経験をしたのは間違いのないことだと思う。
自分の無知や愚かさを知る程度には大人になった私にとって、この世界はあの頃のうちゅうだ。あまりにも大きくて速くて、その形を知ることもできない。全てを知ることができないならなにも知りたくはないと、全てに目を伏せられたらどんなに楽だろうか。
善し悪しを判断する自分のものさしさえ、こんなにも頼りない。測れそうなものだけを、測れそうなサイズに強引に切り取って自分を納得させてしまいたくなる。
立派そうな誰かが測った答えを、自分の答えにしてしまいたくなる。その誰かのものさしを見たこともないのに。
まだまだ混乱していて今回はこのあたりで辞めようと思うが、こういった事柄については丁寧に言葉を探していきたいと思っている。
ひとまずの結論としては、それでも何度だって自分のものさしで測ること、その答えを何度だって躊躇なく捨てられるように生きていくこと、としておく。