1-2 好奇心を楽しむと家族が不幸になる?!
とても好奇心旺盛な私は、この世のあらゆることに興味を持った。いろんな存在たちとおしゃべりしながら、目にするものが全て新鮮だった。母は、できる限りその好奇心を育てたいと思っていたが、父はできる限り「ちゃんと」したいと思っていた。私がいたずら(冒険)すれば、母が叱られた。「私が興味を持って楽しんでいると、家族が不幸になる」と感じるような場面が何度もあったと振り返る。それが自分に対する制限になっていった。本来、楽天的だったはずの私がどんどん父と母が平和に暮らせるような娘になろうとし始めたのだと思う。だって、母が大好きだったから。母が笑顔だと、それだけで幸せな気持ちになった。母は、私たち子どもと遊んでいる時はとてもユーモアに溢れて面白い人だった。父が帰ってくると、おふざけは封印。静かにお利口さんでいることが大事だと学習した。私は、よく笑い、そして沢山泣く子どもだった。赤ちゃんの頃も夜泣きが酷く、それが原因で父と母は言い争ったりしていた。私が泣くと父は怒った。父はいつも不安で、怯えているようで、怒りまくっていた。自分では収集できない事態に自分に苛立っていたのだと今だから思う。感情的にとても未成熟だった。まだとても幼い私を叩いたり、つねったりした。父は体が大きいから、小さな私は無惨に宙に飛ばされた。痛くてもっと泣く。すると暴力もエスカレートした。私は関節が弱くて、何度か脱臼した。父が乱暴に私の腕を掴んで放り投げたりして。痛いし、怖い。好奇心旺盛な私はどんどん怖いものが増えていった。予想と違う現実に、戸惑うばかりだった。
大事なはずなのに、大事な人を傷つけてしまう。そんなことが日常でたくさん感じられて、私は、人の顔色を伺うようになった。好奇心は封じ、自分の内に引きこもるようになった。既に3歳になる頃には、そうなっていて、物心ついた頃には、ネクラな私だった。幼稚園児の頃は、すっかり大人びていた。周囲の世話をすることで、自分の居場所を作ろうとしたのは、既にこの頃から始まっていた。面倒見の良いお姉ちゃんのキャラで生きようとした。ささやかながら、平和を見つけたような気がした。ところが、小二の時に家を建てたので転校することになって、それが通用せず。自分は変わっていないのに、周囲の反応が変わってしまって、途方に暮れた。待ち伏せされて、いじめられたりして、私はますます自分の殻にこもった。自分は人から嫌われる存在なんだと痛感した。心は内側に向かったけど、表面的には静かに親や先生、学校のシステムに従った。いろんなことは受け入れて、与えられた役割は静かにこなした。人とも温和に接していたと思う。自分からは積極的に人と関わるという方ではなかったが、人に不快な思いを与えないように振る舞っていたと思う。小児喘息は小学校に上がり落ち着いたが、入れ替わるように自家中毒で体調を崩した。小4の時には入院するほどに。それを頂点に、11歳で生理が来て、自家中毒も顔を出さなくなった。生理でデトックスしていたのかもしれない。体ってすごい。
幼稚園児の私。
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