ギフトは使われてこそ宝になる
思い出してみると、物心ついた頃から、相談とも言えないような「つぶやき」に触れる機会に恵まれてきた。母と同じくらいの年齢の方やそれ以上年上の方の「つぶやき」にアドバイスもできる訳もなく。「聴いてくれてありがとう」と言ってもらえて不思議な感覚だった。イマジネーションが豊かな私は、その話を聴きながら、自分も体験しているような感覚になったものだ。自然と「私だったらどうするか」を考えるでもなく考えていた。別次元で、そのバージョンの自分を生きるみたいな。物理的次元とは別に、いろんな人生を生きているような学びがあった。その別次元での感覚的体験が役に立つことがある。多々ある。感覚的なリアリティもバカにできないのだ、と学んだ。
だがしかーし!もちろん、自分自身の人生を生きることの方が数万倍も学びが深くなる。物理的次元のことは、本当に多くを学べることを知る。だから私は自分自身の物理的な人生のチャレンジに貪欲なのだ。イマジネーションではわかり得ないことをふかーーーーーく、ふかーーーーく学べる。何にも代え難い喜びに満ちた体験と学びがある。そして、それは、他者に対して何かを分かち合うことができるものとなる。
小さい頃から「つぶやき」という自分も含めた多くの人の心の声を聴いてきて、それなりにセンス(ギフト)は磨かれてきたように思うが、センス(ギフト)だけでは足りないのだ。センスは使ってこそ、本当の意味で磨かれ、完結する。センス(ギフト)を使わないと、宝の持ち腐れになってしまうのだ。宝は使ってこそ、宝として出現する。知っていることを実践しないと「できる」ことにならないように。人間は物質的な存在でもあるし、ここは物質次元だから「行動」を通じて生まれ、結ばれていく。
私の場合、その「行動」は「心理カウンセラーとして、話を聴く」と決め、実際、多くの機会を頂けた。センス(ギフト)は磨かれた。めっちゃ磨かれた。すると、もっと奥の方に眠っていたセンス(ギフト)が目覚める。私の場合、一生使うことがない、何なら使いたくないとすら思っていた感覚が引き出されたと思っている。いわゆるスピリチャルな感覚だ。それは、私がこの仕事を始めなければ、引き出されて使うことはなかったと強く思う。受け入れると、それはもう膨大な情報が届くようになる。もはや自分のための情報だとしたら、とてもじゃないけど、使いきれない。実際、これを知ってどうなるの?と何度も自問自答してきた。それが苦しいと感じたことも、一度ではない。だけど。この情報がものを言う時がある。誰かのためのセッションをしているとき、講座をするときである。誰かの質問に瞬時に情報がやってくる。私のためじゃない情報は、私を通じて、誰かのために表現されるものなのだと、今は理解している。実際に、引き出されるのは、本当のエキサイティングな体験だ。
だから、私はこの情報を伝えることをやめてはいけないのだと思っている。同時に私自身への情報(これは内側からやってくる感覚に近い)は、できる限り表現していくことが大事なのだと思っている。表現することで排出されるような、清々しさがある。排出なんてロマンティックじゃないわね。現実化、叶えるということでもあると思う。今ここ、でもある。
内側からやってくることは認めて、表現(行動)して、昇華される。
ということなのだと私は思う。
センス(ギフト)は使われてこそ宝になる。具現化する。それは自分だけのために使われることはない。表現され、使われて、結果、誰かに触れる。そこまででセットなのだ。
そして、もっと大事なのは、そのセンス(ギフト)を何のために使うかという意図である。シンプルに、愛か、恐れ(不安・心配)か。
よく「あなたのためを思って」というセリフがあるけれど、それもその意図は愛か、恐れか、なの。この見極めは、簡単なようで混み合っている。説明をしようと思えば、いかようにも愛に見せかけることもできる。だけど、エネルギー(波動)だけは誤魔化せない。だけど!自分を誤魔化して生きていると、その見極めができなくなる。
自分のセンス(ギフト)を生かすには、自分に誠実になること、人間として学ぶ姿勢をもつことは本当に助けになる。成熟していくことの喜びはその辺にあるように感じている。
ギフトを持っていない人は存在しない。自分がそれをギフトだと氣づくこと、認めることから始めることが本当に大事だと実感している今日この頃。自分では氣づきづらいそれが、ハッキリ視える。内なる神の光が視える。これが私のギフトなのだと思う。