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備えあれば

 地震や自然災害など、頻発している昨今。
「備えあれば憂いなし」と最低限の準備は大切だと思っている。
思っては、いる。
だけど、究極的に「まず命を守らないと何も始まらない」とシビアに思っているところがあって、備えには腰が重いのだ。
まず生きることに集中。
生きていれば、なんとかなるものだ。
人は、自分のことより、誰かのための方が圧倒的に大きな力が出るんだ。
考えているより、ずっとずっと世界は優しいと思う。

 宮城県沖地震、東日本大震災と仙台で被災した経験があるが、家具や家財が壊れ、家にダメージがある程度なら、まだまだ良い方だと思えた。
 家具を固定していたが、その固定具が壁をぶち壊して、家具が倒れ、何ヶ月経っても、何回掃除機をかけても、ガラスの破片が出てきた。裸足で家を歩けるようになったのは、いつからだったのだろうか。物質的なものは、かなり壊れた。
 それでも、命はあるし、住める場所があるならば、ライフラインも途絶えたり、当時、余震も酷く、万が一の場合を考えて、お客様に来ていただく時期の判断などなど、色々大変なことは山積みだった。でも、それも、ずっとではない。私の住んでいた地域だと、本当に大変で日常生活がままならなかったのは、数ヶ月程度であったと記憶する。
 10キロと離れていないところで、津波で家や職場、大切な家族を失った人のことを思えば、と思ってしまう。そのような状況であれば、非常用持ち出し用品でさえ手放して、命のみ持って行かなければならないこともある。どんなことをしても、どうにもならないこともある。
自然の力はそういうものだと
幼い頃から教えられてきたように思う。
染み付いている。
そのようなことが自分に降りかかってくることもある。
それが生きるということなのだと思っている。
だからこそ、「今」を存分に生きようと思えるのかもしれない。

 そんな私も水だけは最低限確保しようと思えたのは、東京に引っ越してきてから。多くは要らないけど(家が狭く収納する場所が限られることもあり)まず、飲料水。1ケース(2リットル✖️6本)あれば、まずは充分。それを下回らないようにする。
 そして、つい最近、ポータブル電源を購入した。普段の生活は望まないものの、一番頼りになったのは、情報だった経験から、スマホは充電しておきたい。家族の安否確認ができれば氣持ちはかなり落ち着く。
基地局が被災すれば、それも使えないのだろうけれど。その時は、その時だ。可能な中で生きることのみ考える。
 食いしん坊の私なのに、食料を備蓄することに意欲が湧かない。どうしてだろう。

そもそも、自分は生き残りたいのだろうか。
生き残って、何をしたいのだろうか。

そんなことを考えるでもなく、考える。

 ふと、ポータブル電源を見て、なんだか切なくなってしまった。
これを使えないほど、状況がシリアスなことだってある。
人間が考えて考えて備えただけでは、どうにもならないことがある。
そんな人がたくさんいたことなども、思い出したりして、しんみり。

勝手に色々想像して、しんみりしていたら、思い出したことがある。


私たちが家を建てた時に、父が消火器を買ってくれたこと。
父は自慢げに
「この消火器は、すごいんだぞ!
いざという時にパワフルに消火してくれるんだ。
しかもな、何度も使えるんだ!」
と言った。
「そんなに何回も火事を起こさないよ〜」
なんて笑ったけど。
その消火器は一回も使わなかったけど。
そして、東京に引っ越す時に、処分したけど。

でも、父の私たちが建てた家を守ろうとしてくれたこと。
父があの世に旅立ってから18年経つけど、その想いは年々、大きく私を守ってくれているように思う。

だから。
ポータブル電源も使うことがなければないでいい。
生きようと思うのは、自分が生きたいということもあるかもしれないけど
それよりも「生きていれば、何かしら少しでも役に立てる幸せ」を体験したいんだと思った。

生き残りたい訳は、それだ。


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朝水久美子
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