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コワいほど深遠さに触れていく

 今年もあと3ヶ月を切って、書店には来年の占い本が揃っている。占いは大好き。自分なりに学んだりするのも好きだ。必要に応じて自分の生活に取り入れたりすることもある。占い師になったら私自身が楽なのではないかと思ったりすることも幾度となくある。でも、なんだか氣持ちがフェードアウトしてしまう。出家して仏の道に進むのもいいかな、と思った時期もあったが、やはりそれも今世の私にフィットしないとわかった瞬間があった。そんなこんなで、心理カウンセリングに戻っていく。どこに行っても、そこに戻る。そんな20年であった。
 今年になって、心理療法を含めたいろんなツールを扱うこと自体が今の私にとって制限になっていることに氣づかせてくれたクライアントさんがいた。もうカウンセラーでもなんでもない私、もう真っ裸な私で、裸以上裸になる感じで(どんなだw)いることで解放されていくような。もう何も要らない「私」という深遠な存在でいる覚悟を確かめさせてくれるような体験だった。

 思いっきり「私」でいる瞬間が全てと在るような感覚になる。それは、究極の孤独であると同時に絶望的なほどの祝福と一体感。もう降参するしかない。祝福と一体感に降参するしかないのだ。今朝、瞑想をしたら、私の細胞という細胞ひとつひとつに神が宿っていて私を生かしてくれているんだという体感があった。決してひとりではない。

 人生には大きく、統合の季節が巡ってくる。統合するには、分離の季節も大切だ。そうじゃないと統合するものがない。いろんな自分を伸ばしていく。葛藤や「らしくない」ことを経験し、さまざまなことを学ぶ。いろんな方向に枝葉を伸ばして、今まで見たことのない景色を見たり、感じたことのないことを感じる。それは望んだことではなく、不可避のように起こることのようでもある。そこから逃げると、本当に勿体無い。統合するというエクスタシーを体験できない。その過程で自分の中に芽生えることは美しいものだけでなくても、それも含めて大切な季節なのだ。いずれにしても、後々、自分には必要だったと思える瞬間がくる。無理矢理、そう思おうとしない方が良い。本当に必要だったということを深く知るために。今、「目の前のことに向き合うこと」で明確に見えてくる。
 人生で自分に起きたことを深く知ることで、また深く愛を知る。既に知っている深遠なる愛を思い出す。自分という存在を通じて、経験を通じて、思い出していくことに今生きていることの全てが凝縮しているように思える。
だから「今」目の前のことに向き合うことが本当に美しいことなのだと私は感じている。感じまくっている。

 そして、目の前のことというのが、目に見えない内なる世界ということも含まれる。人間としての営みと同じように内なる自分の世界にもっと深く向き合おう。これ以上、深みに入ったら神様とズブズブになりそうでコワい。と思っていたんだな。一番コワくて、一番ワクワクすることをしよう。ますます削ぎ落としていく。

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朝水久美子
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