GPSを測位しています
(ちょっと前の下書きを完成させたものです)
アルバイトが終わった午後4時半ごろ、川沿いを歩いていると、ふと、いつのまにか日が長くなっていたことに気づく。風のやわらかさ、晩春の暖かさ、川辺の人々の賑わい、なかなか沈まない太陽、そういったさまざまな種の眩しさを感じるにつけ、最近覚えた「艶陽」という言葉がリフレインする。実際に晩春の頃を指す言葉で、この季節の一瞬の表情をよく表したものだなあと感心する。このまま帰るのももったいない気がして、そっと道端に腰を下ろした。格好の餌場となった活気の上空をトンビが旋回している。目線を落とした先、川面の反射に覚える懐古、ここには万人の思い出の最大公約数と言い換えられそうな、根源的な親しみやすさが含まれている。多数の、あらゆる方向からの、違った硬度の光を浴びる。今、ここは、この時間は、ここにいる私は、天国に在るのかもしれない、と思った。天国はふとした瞬間に、個人の心に現れるもので、それはぼんやりと眺めていた雲の隙間から一筋の光が洩れ出るように突然で、「見て!」と横にいるだれかに言ったときには消えてしまっているように儚い。手が届かないから天国だという意見もあろう。そんな瞬間を、私はなるべく覚えていたいものだと思うが、これがとても難しい。覚えておくために日記に書いたり、というこの記事もその一環であるけれども、何にせよあらゆる記述は、きっとあの感動を思い出させるには不完全なのだろうと感じる。言葉にすらできない、ほんの一瞬の感嘆に、私が求めてやまない神秘があるということだ。歯がゆいことに。風がぬるくなってきて、立ち上がると、そこはただの川辺になっていた。帰ってきてしまった!一抹の寂しさを覚え、帰り道はずっと空を眺めて歩いた。届かないものに思いを馳せていたかった。