mirror, mirror on the wall
(2023年10月頃の下書きを完成させたものです)
大学のふだんあまり行かない場所にあるトイレにこの前行くことがあった。私はそのトイレの構造が嫌だった。
トイレのほとんどは、入口から個室エリアが直接見られない構造になっている。入口を進むとすぐに角に突き当たり、そこを曲がった先に手洗い場なり個室なりがあるといった風だ。ここまではもはや定型であり、野外にポツンと設置されてある一室のみの公衆トイレなどを除いて、あまねく施設のトイレはこの形のプライバシー保護から逃れられない定めにある。問題はここからどのように工夫されるかにある。このNoteはトイレ研究をしたくて書いているものではないし、そもそも私にその類の専門知識はないので、ここには私がこの前訪れたトイレの構造を示すだけにする。そのトイレの通路は、入口から個室エリアまでがコの字型で結ばれていた。入口からすぐ右に曲がり、突き当たって左に曲がってしばらく直進(この直進の通路の側方に手洗い場が並ぶ)、さらにその角を左に曲がると個室エリアがある、といった様子だ。通路は人間二人が同時に通れるくらいの広さで、ほかに化粧直しのためだけに取られた空間もなく、往復の導線は実にシンプルである。大学のトイレにふさわしい簡潔さだ。しかし私が個人的に嫌うポイントが、通路と手洗い場を兼ねた直進スペースにある。そのスペースはなんと化粧直しの場を兼ねてもいた。というのは、向かって右側に手洗い場(洗面器)がずらりと並んでいるとしたら、左側に一面張りの鏡が続くというような構造だったのである。たしかに理に適っている。手洗い場と化粧直しエリアのために別に空間を作るより、通路に備えてしまった方がシンプルである。それに使用を想像したとき、手を洗ってから、くるっと反対を向けば鏡(とポーチを置くためにせり出している部分)があり、そこでささっと顔を直せるので、不便なことは一切ない。……ならよいではないかと思われるだろうが、ここで個人的な事情が顔を出す。私は鏡が嫌いである。元も子もない話だが、自分の顔なんてまじまじと見るものではないと思っている。もちろん洗面器の鏡ひとつなら気に留めることもない。だが、そのトイレの通路の一方の壁に沿う洗面器の鏡、その連続、もう片方の壁には化粧直しのための一面張りの鏡とくる。鏡は嫌いだ。そんな鏡が視界の左右に常に存在する通路というのはどうも居心地が悪かった。かといってほかに見るものもない狭さの通路で、鏡に圧迫されるような気持だった。……初めてそのトイレを使ったとき、手洗いを済ませて、左右の壁にびっしりと張られた鏡に気味の悪さを覚えつつ、しょうがないので前を向いて歩いた。そこに追い打ちをかけるように、入ってくるときには気づかなかった全面鏡が、出るとき、突き当りの壁に表れた。
いよいよ足を止めてしまった。
まじまじと自分の姿を見る。なんというかひどい顔をしていた。今更コンプレックスは無いはずだった。顔のつくりについては特に思うことはなかった。まったく満足しているという訳ではなかったが、それでも、どうせ死んで焼かれたらみんなおよそ同じようなもんだろう、骸骨の区別なんてつきようもないのだから、と思えば無視できるほどのものだった。そのとき鏡に映る自分に覚えた醜さは、今まで自分が言われてきたことのフラッシュバックのようなものだった。たとえば、小さなころから肥満気味であったわたしは、同じく小さなころからいろんな人に「痩せたらかわいいのに」と言われ続けてきた。確かに、この頬の肉が、あごの肉がそぎ落とされたならば、ある程度マシになることは確かだろうと思う。だが、わたしはそういったことを言われるたびにむしろ、痩せようとする気持ちが萎えていくのを感じた。
思春期の一時、周囲に影響されて、痩せなければと思ったことが確かにあったが、結局、あるべき美の形に迎合して初めて得られる何かに、必要性を感じない今は、このままでいていいという考えに落ち着いた。しかしそれはそのときの気持ちというより、私のアイデンティティを貫く思想であり意志だった。つまり、私が思想として必要でないと判定した美の副産物に対して、もしそれがあったら、と思ってしまう場面がないこともないということである。というよりそれがなかなか頻繁に訪れるのだから厄介なのである。もしあのとき私が「美し」ければ……そんな無意味な後悔をしてしまう。自らそれを捨てておいて今更なにを言うのだろう。堂々巡りである。
私は鏡が嫌いだ。鏡に映る自分の像なんて半分くらいはそのときの気分の補正がかかるのに、いついかなるときもそれが自分の本当の姿だと思わせてくるあの鏡が嫌いだ。浮かれているときも、落ち込んでいるときも、私に本当の姿を見せてくれはしない。
というわけでもうあそこのトイレはなるべく使いたくないと思う。