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映画批評について「荒俣宏×中沢新一」の対談 『映画の快楽』(1990年)より
『映画の快楽 ジャンル別・洋画ベスト700』(1990年/角川文庫)に収録の「荒俣宏×中沢新一」対談より【批評/評論家】に関する箇所を引用する。
中沢 ~~さっきの批評の問題を繰り返すと、ぼく、不思議だと思うのは、文芸評論って、もはや評論家らしい人はもういないでしょう。美術評論家はもっといない。評論家がいいと書いても、その美術展に誰一人行きはしない。ところが映画だけはいまだにクリティックが機能していて、蓮實さんや山田さんや淀川さんのパーソナリティーが機能している。さっきは映画評論家の影響力があり過ぎると言ったけれど、逆に言えば、他のジャンルではもう評論家なんて何の機能もないのに、映画にだけはある、これは不思議だね。
~~中略~~
荒俣 もう一つは、映画批評がある程度意味があって機能していると、見た時に、「これは違う」とか「これはそうだ」と、リコンファーム(※再確認)しやすいことはある。
中沢 ところが文学の場合、それが分からないでしょう。
荒俣 まったく分からない。文学は、リコンファーム出来ないからね。
中沢 こんなに褒めてるから、これはきっと仲間褒めだろうとかね。(笑)
荒俣 どうしてもそうなっちゃう。
中沢 ところが映画ではそれが出来にくい。仲間褒めをしても、褒められない映画を褒めたりしているとすぐに分かっちゃう。
荒俣 そう、これはほんとに分かる。文学の悲劇は、リコンファームさせる機能を装備できなくなっちゃったことだね。リコンファームって、要するに「満足させる」ことですよ。「ごっつォさん、またくるよ!」って言わせること。
文庫本『映画の快楽』の基になっている?のは、安原顯(1939-2003)氏が編集長時代の中央公論社『マリ・クレール 日本版』1990年7月号(No.92)らしい。
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