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つげ義春『〈愛蔵版〉夏の思いで』の【自作解題】に見る〈鬱々とした嘆き〉

『〈愛蔵版〉夏の思いで つげ義春作品集』(1988年/中央公論社)の「まえがき」に書かれた【自作解題】より。この本のユニークさ?は「本の帯」にだけ〈自選作品集〉と書かれているが、帯を外した書籍本体には、どこにも「自選」と書かれていない点。なぜ? 帯の「背」の部分には〈単行本未収録作品多数をふくむ鬼才の自選集〉。つげ氏は「1987年以降休筆」の状態。


↓目次
。有名?な『ねじ式』『李さん一家』『海辺の叙景』『通夜』が無い。

↑『もっきり屋の少女』『山椒魚』『西部田村事件』『ほんやら洞のべんさん』も自選から除外!?
https://jp.mercari.com/item/m10307030738
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まえがき―――自作解題
                          つげ義春

~~
_初期作品のレベルが低いのは弁解をしてもしかたのないことだけれど、多少の言い訳をすれば、貸本業界で生活を維持するには粗製多作しか方法がなかったのは事実で、駄作が多くなるのはやむをえないことであった。_私が貸本を描いていた時期は、昭和三十年(※1955年)にデビューしてから四十年(※1965年)までの十年間だったが、私は粗製でありながら多作ができず、生活は困難をきわめ、さらに粗製になるという悪循環を招いた。とくに目立つのが絵の粗雑さで、下描きもろくにせずに一日に五十数枚も描きとばしたことがあった。時代ものを描く場合なども、考証の知識もないまま、いい加減デタラメに描きなぐっていた。_宮本武蔵を扱った作品はこの外にも五、六作あるが、私は自分の生活苦を武蔵にダブらせて勝手なイメージを作り、老いぼれて僅か二百石で就職した晩年の寂しい武蔵の苦渋を描いてみたいと思っていた。_少女ものは、当時はお涙頂戴式と決っていて、見るのも描くのも恥ずかしく、私なども蔑視していたが、その典型ともいえるありふれた作りの「月姫さま」を読み返してみたら、胸にジンときた。これはどういうことなのだろう。~~「忍者絶命」「右舷の窓」を描いていた頃、貸本の末期、生活苦に加え、私は単に娯楽ものとしてのマンガを描くことが苦痛になってきて最も悩んでいた時期だった。芸術とか自己表現とかの意味も、無知無学の私には何のことか解らず、そういうことを語る友もなく、誰に影響されたわけでもないのに、しぜんにそういう方向へ傾いていたのか、娯楽としてのマンガを描くことが、心身の拒絶反応を現すほど苦しくなっていた。書痙(※しょけい)に似た現象だったのか、ひとコマ描くにも手が震え脂汗が流れ、胃のあたりに黒い不安の塊がこみ上げてくるような不快と、頭が割れそうな激痛を覚えたりした。それをごまかすため投げやりな描き方をすれば、それもまた苦しみとなった。_それにしても自分の資質に合わぬマンガ作法を続けることに、神経症的ともいえる拒絶反応をみせるということはどういうことなのか。自分の中から何かが噴出しようとしていて、それが娯楽としてのストーリィ優先の《劇画》では表すことができなかったからだろうか。ストーリィに疑問を持つようになった。_商業主義に偏らない自由な方法で描くことのできる雑誌「ガロ」が創刊されたのはその頃で、四十一年(※1966年)に「沼」を描いて、ようやく苦痛にならずにすむ道が開けたように思えた。急に気がらくになり、いくらでも描けそうな気がして、続けて「チーコ」を描いた。「チーコ」は、マンガではおそらく初めてといえる《私小説》風の方法を試みたものだった。だが、二作ともひどく不評だった。とりわけマンガ家仲間からの非難は強かった。貸本マンガでならどのような駄作に対しても、同業者の仲間意識から作品の批評などすることはなかったのに、このときの悪評は、何か異物を見て戸惑っているかのようだった。好きな方法で描くことを奨めてくれた「ガロ」の関係者も当惑の色をみせた。_そのような反応に対して、私は自信を持って自分を主張できないほうで、何か大きな過ちを犯したような気になり消沈し、印刷工場や芝浦の倉庫会社へ履歴を送ったりして、転職を考えた。_水木しげる氏が急に忙しくなり出したのはそんな折で、氏に手伝いを求められた私は、助手になりきって、それで終ってもよいと考えた。「沼」「チーコ」「初茸がり」のあと一年間は休筆し、旅ばかりして気をまぎらわせていた。「リアリズムの宿」「枯野の宿」「会津の釣り宿」は《旅もの》といわれる一連の作でとくに難解でもなくオーソドックスな手法で描いているが、旅ものを発表し出すとまた批判があった。旅先での出来事を何の工夫もせず事実のままを描いているにすぎない、というような意味のことをわざわざマンガ作品にした者もいた。「ねじ式」を発表すると、それを嘲笑するようなパロディも現れたりして、芸術家を気取っているとの噂も聞こえた。私には芸術も何もないわけで、自分にとって最も気楽な方法で描いていたにすぎなかったが、次第に同業者から疎まれ孤立するのを感じるようになった。「夢の散歩」は、貸本末期以来こだわり続けてきたストーリィの意味を考えていて、夢をヒントにして、このような作になった。道理や約束ごとを無視したような作品だが、ストーリィの意味を究極まで問うと、必然的にこうなるのだと思う。夢を描いたものではない。この作でストーリィからの解放感をしみじみ味わうことができた。しかし、このような作を続けて描くのは頭が変になりそうで、生活もできなくなりそうなので、これきりになった。「夢の散歩」以後は、私小説風スタイルをとる作品が多くなったので「旅先での事実をそのまま描いているにすぎない……」と同じ誤解をうけそうだが、誤解されるのをむしろ望むようになった。「夏の思いで」「懐かしいひと」「事件」「退屈な部屋」「日の戯れ」「散歩の日々」など、事実かそれに近い話として読まれ、主人公を作者の実像と想像されるのを楽しむようになった。私小説風を装うことによって、事実とフィクションを混同され、作者像も誤解され、正体不明になってしまえたらと、そんな風に考えていた。それは自己隠蔽による自己表現というひねくれた考えなのだろうが、気持としては自己表現はしたくなく、もっともっと隠蔽できないものかと願っている。それには描くことをやめるしか方法はないのだろうが。 
                           一九八八年九月

」は引用者による加筆。「」は省略の意味で使っています



私はつげ義春にハマっていたずっと昔に(もちろん今も大好きだけど)、まんだらけ大阪店で『つげ義春漫画術』(上下全2巻/ワイズ出版)と『つげ義春資料集成』(北冬書房)を買ったが未開封のまま。多分色々書いてあるだろう。


帯付き」と「帯無し」の書影  ※「1988年の初版」の定価は「1200円」

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q1060596799
https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1186425083


つげ義春作品主人公には結構↑↓「ポケットに手を入れてる印象がある。一番印象に残っているのは李さんと並んで歩く(カニ)』の最後の場面

↑は左手で自転車を支えてる?んだと思います。『夢の散歩』かな?
↑は名作『紅い花』に出てくるガキンチョですね


↓『』の扉絵。最後のページは李さんをマネてポケットをふくらませる

』は有名な「実はまだ二階にいるのです」で終わる『李さん一家』の続編に当たる短篇漫画。
https://takeume.base.shop/items/65652796


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