ラグビーを観るようになって、宝塚を観なくなって、気づいた事〜どちらも心の栄養だけど〜
1.行かなくなった夢の場所
もう一年以上か、、
コロナ禍という世界異変は、専業主婦としてささやかに生きる私の日常も変えてしまった。
【密】 なる状態。
これがダメだと言われて行かなくなった場所がある。
【東京宝塚劇場】
月に一度、いや気に入った演目なら2度、3度、現実にはあるはずもない夢を見るために、私はここに通った。
《エンターテイナーとは舞台の上だけで》
これが私の信条だった。個人ファンクラブには入らず、ヅカファンのブログも読み専門。
その距離の遠さを寂しいと思ったことはなかった。当然の事だと思っていたからだ。
エンターテイナーはガラスの壁の向こう、夢の世界の人。
そのかわり、舞台という世界で存分に夢を見せてくれた。その結末がたとえ悲劇であっても、フィナーレのショーが始まった時からそこは甘く幸せな空間に変わるからだ。
今思うと、そこは《お約束》の場所だった。結末も何もかもわかる。不出来な脚本、実力不足のタカラジェンヌもいない訳ではないが、それすらも事前に把握できた。
《全てが予測可能、決して失望しない安心感》が私の足を日比谷に向かわせていたのだ。
2.この場所に通うようになって
日比谷の地から足が遠のき、その代わりに通うようになった場所。
【秩父宮ラグビー場】
ここは、お隣神宮球場ほどではないにせよ、
【不測の事態】が支配する場所だ。
ラグビーのノックオン的な事が一度でも芝居で起こったら途端に舞台は壊れてしまう。
しかし、スポーツというエンタメ、グラウンドという舞台は、
《ハプニング》と《スリル》に満ちている。
そしてなにより、【勝敗】という結果がある。
『今日の舞台は出来が悪い』という曖昧なレベルの話ではない。
負けたらダメ、勝ちが全て
私は、正直この世知辛い現実が毎週続く生活を続けていくのが途中でしんどくなった。
諸々の重荷を抱えながら日常を生きる身には、どちらかを一方的に肯定し、他方を否定するスポーツなるものに自らを重ねることができない。
うっかりすると、自分をも否定しかねないからだ。
こんな事を思うのも、応援するチームの一方は絶好調、もう一方が不調であるせいだが。
ただ不思議なことに、ラグビー選手は、タカラジェンヌよりずっと身近に感じる。
ガラスの壁もずっと薄く感じる。決してそんな事はないのだが。
確かなことが一つある。
選手達がグラウンド上で、喜びも悔しさも生き生きと表すその表情は本物だ。なんの脚色もないありのままの姿を彼らは見せてくれる。
私はなぜここに通うのだろう。
ここには《生身の人間》が集まるから、
コロナ禍の日常で奪われた、【弾けるような感情の渦】があるから、だろうか。
予測不能の【試合】という舞台、その喜びは大きく、失望も大きい。
明日も、そんな思いを抱えながら熊谷へ行く。
一体そこにどんな結末が待っているのだろう。