表現の自由・検閲について

◆主張

主張は端的には,

検閲は一切認めない

ということです.その理由は,民衆にとって,検閲を許すことに付随するリスクが高すぎるからです.

また,検閲に賛成する勢力から表現の自由を守るためには,

「表現の自由」を訴えるよりも,「検閲の反対」を訴えた方がよいのではないか

と考えています.

※ 検閲は,公権力による検閲を想定しています.

◆導入

我々は,社会的判断を否応なく行い続けなければならない社会を生きています.

例えば,自動車事故で年間何千人もの方が亡くなるデメリットより,自動車を日常的に利用できるメリットが勝るという判断を,我々は常に行っています.

また,包丁を手軽に買えることのメリットが,包丁を使った犯罪が起こりやすくなるデメリットより大きいとも判断しています.一方で,銃に関しては,それで自分の身を守れるかもしれないメリットより,デメリットの方が大きいと判断して,簡単には所持できないようにしているわけです.

社会が何を認め,何を禁止するかは自明ではなく,我々自身が常に考え,判断し続けるしかないのです.

※ 複雑化した現代社会は,そのような判断を行なっているつもりはない,という逃避を許しません.自分は自動車を運転しない,という人でも自動車で運ばれた製品から逃れて暮らすことはできません.

◆説明

さて,仮に検閲を認めるとしてそのメリットはなんでしょうか?例えば,犯罪を助長する表現(児童ポルノなど?)を規制できることなどが挙げられるかもしれません.

一方で,検閲を認めてしまうと,権力者が恣意的にそれを運用し,体制に都合の悪い情報や対抗勢力による表現を規制してしまう危険性が常につきまとうことになります.

これらを天秤にかけたときに,過去の権力者が,(はじめはどれだけ民衆の支持を集めていようと)ほぼ必ず変節した歴史などを鑑みれば,検閲を許さない方が民衆のメリットが圧倒的に大きいのではないか,と考えています.

仮にはじめは,表現の内容に応じてより良い・悪いを判断するような形で検閲がスタートし,それなりの数の民衆がそれを支持していたとしても,それはいずれ形骸化し,体制の都合だけに基づいた検閲へ移行することは避けられないのではないでしょうか.

◆再度の結論

以上より,(公権力による)検閲は一切認めない,というのが自分の主張であり,それは裏を返せば,民衆による表現の完全な自由を保障することを意味します.

もちろん,ひとりひとりの人間が各表現を好んだり・好まなかったりすることは完全に自由であるし,民衆がこの表現はよい・よくないと表明することも自由です.そして,差別などの「よくない」と考えられる表現は,公権力の介入ではなく,民衆による普段の・不断の努力により避けられるべきである,と考えています.

◆この文章を書いた理由

検閲を肯定しようとする勢力の上層部は、「表現の自由」を意図的に(もしくは意図せず)「悪い表現は悪い」という議論に話をすりかえ,下層部は「その表現を自分は好まない」という主張を行っています.それに対して,リベラル勢力が「表現の自由を守れ」一辺倒で攻めるのはスジが悪いのではないか,と感じています.このような議論を行う際は,表現の内容そのものが焦点にならないように,注意深く行うべきではないかと考え,そのための一端になれば,とこの文章を書いた次第です.

※ 「表現の自由」は「表現の内容」とは無関係です.

◆補足①

公権力が民衆の表現を検閲することと,民衆(の特定の集団)がある表現に反対することは全く異なることです.例えば,「民間人が国旗を燃やす」というような表現を,反体制的であることを理由に公権力が禁止することと,「戦争に関わる展示物」を民間団体が反対することは,全く異なる現象です.もちろん,「民間人が国旗を燃やす」というような表現に,個人や団体が反対することは全くの自由です.

◆補足②

ひとつの補助線として,自分の体験談を書いておきますが,恐らくこのようなことは,私の経験に限らず,様々な場所で頻繁に起こっているのではないでしょうか.

自分が予備校講師をしていた際,己の立場が脅かされると感じた年長の講師から様々な妨害行為を受け続けました.その際の彼の言い分は,私の授業が「生徒に嘘をつき,騙すような内容であり,そのような授業を許してはならない」でありました.内容の吟味を行う能力もないのに,です(実際,解答速報の際,彼が自力で東大入試問題を解くことができないことは幾度もありました).

教育現場で,授業内容を検閲するようなことがはじまれば,(仮にはじめは教育水準の向上を目指していたとしても)いずれこのような変質を引き起こすことが不可避であるように思えます.



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