墓参

 街路樹の枝先が芽吹いて淡いみどり色が眼に清々しい。そんなある春の日のことである。
 太一が運転する青いヴィッツは、ウィークデイの東名高速を西に向かって快調に走っていた。途中、海老名のサービスエリアで休憩し、御殿場インターから一般道に下り、国道二四六号線の交差点を右折した。太一の隣には叔母のめぐみ、後ろの席にはめぐみの妹の洋子が座っている。
 彼女たちは女ばかりの四人姉妹であるが、一人は十年前に他界した。それが太一の母親で、彼女たちにとっては長姉のえい子である。
 
 ヴィッツは目印のセブンイレブンがある交差点まで来た。ここを左折し、田舎道をすこし走れば、目的地である公園墓地まではあとわずかだ。三人はえい子の遺骨が眠る墓に向かっているのである。 
 昨今、平均的な所得の都市生活者が、住居の近郊に墓地を購入するのは難しい。太一の父親は、えい子が亡くなった際、ここ富士山の裾野に広がる広大な墓苑に一区画を買った。郊外というよりは田舎である。それでも大手不動産会社に支払った金額は、新車のミニバンが買えるほどであった。

 田植えを控えて水を湛えた田んぼが、うねった道の両側に広がっている。こんもりとした針葉樹の林を抜けると見晴らしのよい小高い所へでた。そこからの遠景には、同じ大きさで、規則的に並ぶ無数の墓石が広がっていて、あたかも最初の牌が倒されるまえのドミノのようであった。 
 御影石の墓石は、春のやわらかな陽射しを浴びて、白く光っている。二人の叔母は、既に涙ぐみながら墓石に向かって話し掛けている。 
「えこんちゃん、太一がここまで運転してきたのよ」 
 めぐみは、墓苑の入り口の売店で買った花束を供えた。 
「太一も怪我が治って、もうすぐ働けるんだって」
 洋子は、桶に汲んだ水を、柄杓で墓石にかけていた。太一は、下手糞な演劇部のようなだと白けた気分で墓石を見ていたが、ふと表情を変え、叔母たちをさえぎり言った。  
「あれ、花の位置が違ってるよ」  
「あら本当、お線香なんて縁がないから間違えちゃったわ」
 めぐみが恥ずかしそうに、花束を線香用の筒から生花用の筒に移しかえた。
 洋子は手提げ袋から聖歌集を二冊だし、一冊を太一に手渡して墓石に向き直った。
「神様、私たち今日ここに集うことができましたことを感謝いたします。
 太一は辺りを見まわし、誰もいないことを願った。しかし左前方に一人で墓参する老婦人を発見し、狼狽した。神に対する感謝の言葉が終わると、叔母たちは、賛美歌を歌い始める。太一は、それを老婦人に聴かれるのが恥ずかしいのだ。

 叔母たち四人の姉妹は、プロテスタントの教会で知り合い結婚した祖父と祖母の間に生まれた。幼いころから教会に通い、信仰は空気のように当たり前のものであった。しかし、日本におけるキリスト教徒は、現在でも全人口の二パーセント以下でしかなく、彼女たちは、正月を神式で祝い、葬儀は仏式で執り行う、ごく標準的な習慣のなかで育った男たちを伴侶に持った。そうして、太一たちの代になると、イエス様に対する信仰は、だいぶ薄まってしまった。

 母方の親族が一同に会すると、叔母たちは、神に祈りを捧げ、賛美歌を合唱する。そこが教会なら問題はないが、敬虔な彼女たちは、辺りを憚らない。長姉のえい子の墓には、これまで数回親族が集った。それは、大抵休日だったから、他の墓にも沢山の人が参じていた。叔母たちの、芝居の台詞のような「神様……」が始まると、辺りに妙な空気が流れだし、賛美歌を歌いだすと、明らかに異質ななにかが一族の周りにたち込める。敬虔ではない太一やその従兄妹たちは、叔母たちの熱唱を他の墓に来ている人たちに聴かれるのが気恥ずかしかった。それでも従兄妹たちは大抵七、八人は来ていたから、恥ずかしさは、連帯でやり過ごすことができた。

 太一は、背負っていたデイパックから、ハンカチに包まれたタッパーを取りだした。タッパーの中身はすいとんである。すいとんとは、小麦粉を水で溶き、練って団子状に丸めたものを和風の汁で炊いたものであるが、そんな旧式の惣菜を墓参に持ち込んだのにはわけがある。

 姉妹たちの末妹は、真澄という。その真澄の家庭が上手くいっていない。亭主が働かないのだ。姉たちは、そんな亭主とは別れろ、と助言するが、真澄は聞き入れず、健康食品や器具を販売する会社に勤めて家計を支えている。真澄はときたま太一のところにも電話をよこす。
「あんた、トルマリンって知ってる? 南米で採れる鉱石でマイナスイオンをだすのよ。新製品でそのトルマリンを粉にして綿と混ぜた電気布団があるんだけど、買わない? 定価は三十万だけど、あんたなら十五万でいいわよ」  
 太一はいつものらりくらりとかわすのだが、ある日真澄からこんな電話が入った。
「あんた、大変よ。親しくしている陰陽師さんから言われたんだけど、えこんちゃんが大変なのよ」
「大変って、おふくろは十年前に死んだじゃん」
「馬鹿ね、あの世で大変なのよ。えこんちゃんはね、お腹をすかしてすいとんを食べたがってるの」
「陰陽師がそう言ったのかい?」
「そうよ、すごく霊力の高い人なの」
「その先生にいくら払ったんだい?」
「お金は取らない立派な人なのよ。それにまだ修行中だから先生じゃないの。でもその人のお師匠さんはすごいのよ。一回の見料が五万円なんだって」
 真澄は、その高潔な陰陽師の卵から紹介されて、偉い先生に見てもらった悩める人が払う五万円から、いくらかの手数料が卵に返ってくる、とは考えないようだ。
 「私がつくっても駄目なんだって。ご長男がつくって本人がお供えしないと効きめがないって言うのよ」
「なんだか脅迫みたいじゃん」
「そんなこと言わないで。お願いだから行ってきてよ」 
「叔母ちゃん、陰陽師とか言って、最近教会にも行ってないらしいじゃん」「教会に行かないのはあんたもいっしょでしょ」
「それはそうだけどね」
 人は、死ねば燃えて灰と化して、それっきりである。天国だの彼岸だのというものは、太古の為政者が、民草を統治するために執った施策の名残でしかない。
 酒に酔ったときなど、太一はそう言って憚らないが、その陰陽師の霊言も、なんだか不気味である。矛盾しているが、それが人間というものだ。それ以上考えるのはやめにして、太一は、真澄の姉であるめぐみと洋子に電話をかけた。そして、不憫な真澄のささやかな願いをかなえようと相談を持ちかけたのである。

 タッパーの中身を四つの紙コップに分け、一つを墓石に供えた。
「すいとんなんて懐かしいわね」
「なかなかいい味じゃない。どうやって味付けしたの?」 
「ほんだしと中華あじを等分に入れたんだ」
「へー、でもちょっと粉っぽいわね」 
「小麦粉の練り方が足りなかったかな」
「まあ、いいでしょう。これで真澄は安心するわけよね」

 青いヴィッツは、二四六号線を東京方面に向かっている。東名高速の上り線が事故で渋滞していたから、しかたなく一般道を走っているのだ。静岡県と神奈川県の境の山道にさしかかると、車窓からの景色が、先ほどまでとは微妙に違ってきた。富士山の裾野付近は、火山灰が土質に影響しているせいか、生い茂る木々が細く、また高原特有の乾燥した空気のせいか、全体的にパステル画のような穏やかな景観であった。県境付近は、丹沢山系に属し、木々も太く、葉の緑も黒ずんでくるようである。
 叔母たちは、互いが所属している句会での旅行の話や、他の親族の噂話にも飽きてきたようだ。
「ねえ太一、あとどれくらいで帰れるの?」
「さあね。高速の渋滞が解除されればそこから一時間もあれば着くよ」
「ねえ、真澄のこともあれだけど、太一もたまには教会に来なさいよ」
「そうよ。太一は小さなときから牧師さんに懐いてたじゃない。もうおじいちゃんなんだからたまには会いに行きなさいよ」
「いや、おれはさ、唯物史観の人だからさ」
「なにわけ解からないこと言ってるのよ」
「いつも言ってるじゃん。おれは無神論者だって」
「もう。天国のえこんちゃんが聞いたら悲しむわよ」
「だから死んじゃった人は存在してないわけで、その人は悲しみようがないのよ。存在してないんだからさ」
「そんなこと言って。太一も憶えてるでしょ? えこんちゃんの棺が焼き場に行くまえの日こと」
「そうそう。みんながいたときに電気がぱっと消えたじゃない」
 えい子が病院で息をひきとり、かまぼこ型の棺に入れられ自宅に帰ってきた夜。一族が集まり、故人を偲んでいると、突然部屋の蛍光灯が消え、数秒後にもと通りに灯った。
「あれは、だめになる寸前の蛍光灯だったんだよ」
 太一はそう言ったが、実際は、蛍光灯は劣化していなかった。それ以前にも以降にも、そんなことは起きなかった。それは太一にとって、小さな神秘体験といってもよかった。

 東名高速の渋滞は解消され、太一が運転するヴィッツは、秦野中井インターから東京方面に向かった。
 太一や叔母たちが住む街には、陽が落ちるころに着いた。アパートの部屋に戻った太一が、蛍光灯を点けると、二つある輪の大きいほうが点灯しなかった。テレビの野球中継が終わると、太一は、最寄りのセブンイレブンに、缶ビールを買いに出た。レジで支払いを済ませ、店を出ようとしてから、太一は思いなおしたように店内にもどり、蛍光灯が置かれている棚から、昼光色の三十二型を抜き取りレジに向かった。
 太一は、それが無駄になることを期待しつつ、横断歩道を渡り、部屋に戻った。
      
                         <了>

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