釣行奇譚

 ひとりの男が魚釣りに行く。
 男は昼下がりに家を出て、深夜にポイントがある入り江に着く予定である。
 魚釣りを趣味とする者の多くがそうであるように、その男も万事に怠りのない性分であった。クルマのトランクには、メーター級の鱸がかかっても取り込めるようなよく撓う竿や、木の葉のような鰈の魚信も手に伝える繊細な竿が積んである。小海老も掬える細かい目の網や、消波ブロックに付着した牡蠣をこそげおとすためのシャベル、それを砕いて撒き餌にするためのハンマーまで用意してきた。

 男の住む街を出たクルマは、西に伸びる一本道を走って行く。道の両側には人参畑が一面に広がっていて、パステルで描かれたような淡い緑の葉が規則的に配列されている。それは男の視界から遠ざかるにしたがって、土の部分が見えなくなり、先の方は緑色の絨毯のようであった。遥か遠くの地平は茜色に染まりはじめ、工場の煙突やカマボコ型の体育館が鈍い銀色のシルエットを象っている。暗くなるにつれ、それらの輪郭が滲み、ヘッドライトを点灯させる頃になると、男は旧い記憶にとらわれはじめた。
 夕闇に同化しつつある遠い街並は、男が幼児のころ、母親に連れられたプラネタリュ―ムを思い出させた。
 映画館のそれと似た臙脂色の椅子は、リクライニング機能が付いていた。館内が徐々に暗くなり、紡錘形のイスラームのモスクを内側から見上げたような天井のスクリーンに星々が映し出されると、空と地面の境目の辺りに描かれた工場や煙突が影絵のようで、もの哀しさを誘った。

 目指す入江に着いたのは午前零時ごろだった。
 男はクルマを降り、様子を見に防波堤に上がった。黒鯛狙いの釣師がひとり、仕掛けを壁際に落し込んでいる。
 男は海を覗き込む。引きずり込まれそうな気持ちになる。
夜明けまで車中で待つことにして、持ってきた文庫本『男嫌い』を読みはじめた。
 深夜のクルマのなかで、波音を聴きながら読む吉行理恵。
 夜明けまでの数時間は、確かに男の人生に刻まれた。

 東の空が白みはじめたので、男は本を閉じ車外に出た。防波堤に上がると、海鳥が数羽、鳴きながら旋回している。
 すこし風が強いが、波は穏やかで、釣りには良いコンディションである。男はクルマに戻り、道具を持ち再び防波堤に上がった。夜通し落とし込みをしていた釣り師に釣果を訊くと、彼はクーラーボックスを開けた。見事な黒鯛が二尾。既に〆てある。
「これから帰って、刺身にして一杯やって寝るよ」
 彼はそういうとロッドをたたみ、帰り支度を始めた。

 朝日に照らされて海面が光る。
 男は遠投用の長竿にリールを装着し、道糸に仕掛けを結ぶ。うねうね動くアオイソメ(百足やゲジゲジに酷似)を針に付け、ふわりと放物線を描くように仕掛けを海に投げ入れる。
 そこで思わぬことが起きた。
 仕掛けが放物線の右肩あたりにさしかかったとき、上空を旋回していた海鳥がアオイソメに食いついたのである。逃げようと必死に羽ばたく海鳥だが、仕掛けがますます絡んでしまう。あたかも鳥の格好をした洋凧を上げている如くである。リールを巻きとり、絡んだ仕掛けを外そうとしたが、目の前でもがく海鳥は旋回時よりずっと大きく見えた。<ギャッギャッ>と鳴きながら男を嘴で突つく。
 とても手におえにない。
 男は釣糸をカッターで切り、海鳥は仕掛けを羽に絡ませたまま飛び去った。
 男は呆然としながらも、事の成り行きを反芻してみる。最近読んだ魚釣系
雑誌の読者投稿欄に想いがめぐった。マナーのわるい釣り人を糾弾する投書に、似たような事例が書かれていたのである。
 しかしそれはほんの数秒で、男は新しい仕掛けを結びはじめた。

 夕刻までに、男は鱚や穴子を釣り上げた。それらは男と同棲する女が捌くはずである。
 男は帰路の車中で、かつて持ちかえった穴子を母親が調理したときのことを思い出した。
 母親は穴子を天麩羅にし、口に運ぶと、不可解な苦味が口中に広がった。母親は穴子の体内に残ったアオイソメも一緒に揚げたのである。
 男は釣った魚を天麩羅にできる状態にまで裁いてから女に揚げさせようと決め、カーラジオのスイッチをいれた。
 聴こえたのは、開幕したばかりのプロ野球中継であった。途端に男は現実に引き戻された。翌日、職場の朝礼でスピーチをしなくてはならない。 
 男はそのネタを探そうと局を変えた。
 クルマは一路、男が住む街を目指して走って行く。

                       <了>

1800文字 

想いもよらぬ獲物を釣ってしまった。

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