太一の決断
暦の上では、冬至が過ぎたが、このところ、小春日和が続いていた。それが、一昨日あたりから天候が崩れ、今朝は霙交じりの雨だった。昼過ぎに雪に変わり、太一がパソコンの電源を落とす頃には、綿を千切ったような雪片が夜空に舞っていた。十二月にこんな大雪は、東京では珍しい。
会社から駅までの道を、太一は革靴の足裏に神経を集中させながら歩いた。
東京は大雪になると、脆弱な街になった。人々は危うい足どりで歩道を歩き、軒下で傘に積もった雪を払い落とした。車道を行き交うクルマも殆どがタイヤにチェーンを巻き、煩い音をたてながら、灰色のシャーベットを撒き散らした。
駅に着き、太一は電車が止まっていることを知った。駅の南側にある、行き着けのバーで、電車が動きだすまでの間、過ごすことにした。
カウンターだけの小さな店に、客は太一ひとりだった。女性ボーカルのジャズスタンダードが流れ、ママのアキは、アイスピックで氷を砕いていた。
「アキちゃん、今日もあれ、でるかな」
「あれ、とか、でる、っていうのは失礼よ」
「そうか、じゃぁ、彼女」
「どうかしらね。ロックでいいの? それとも水割りにする?」
「氷を大盛りでロック」
カウンターに太一が頼んだグラスが置かれる。太一は、壁に立てかけてあるギターを膝に乗せ、つま弾きながら、氷の角に丸みがついてゆく様を観察するかのように見つめた。スコッチと少しづつ溶ける氷が混じりあう。見つめていると、それは粘度を帯びてくるようだった。と、氷が溶けてグラスがカランと鳴った。辺りにタバコの煙より密度の濃い霧のようなものがたちこめ、それが晴れると、十センチ大の小さな女性がカウンターの淵に座り、脚をブラブラさせている。
「やっぱりでた。君はあれかい? あのティンカーベルの仲間? ピーターパンの友達の」
妖精らしき人は、ぷいと横を向く。
「あれ? なんか怒っちゃったよ、このひと」
「太一がデリカシーのない態度をとるからよ。ね、妖精さん」
「もう! いきなり超有名なティンクの名前をだされたら、誰だって不貞腐れるわよ。あなただって、エリック・クラプトンと友達? なんて訊かれたらびっくりするでしょ?」
「そりゃ、そうだ。でも、おれは妖精なんてティンカーベル位しか知らないもんでさ。気を悪くしたなら謝るよ」
「もういいわ。私はジル。まだ修行中の妖精なの」
「おれは太一、ここの常連なんだ。ところで、修行って、どんなことをするんだい?」
「それはね、私たちの棲む世界に、人間を連れてゆくこと」
「へえ、面白そうじゃん。おれじゃ駄目かな?」
「あなたは、色んな意味で合格だけど、いいの? あっちに行っちゃったら二度と同じ姿で戻ってくることは出来ないのよ?」
「うーん、それは困る。ちょっと怖い」
「でも、あなたなら適任だと思うんだけどなあ、あなた、楽しく人生を謳歌していないでしょ? どっちかというと、嫌々生きてるでしょ?」
「うん、そう言われてみれば、そうだ」
「だったら来てみない? 来れば楽しい所よ」
「うーん、やっぱり止めておくよ。おれの人生は屈託だらけだけど、そう捨てたものでもないんだ」
「そうかしら、あなたみたいに、人生は長すぎる、なんて本気で考えてる人は稀よ。ここがターニングポイントだとして、思い切って人生を変えてみたら?」
「うーん、ちょっと考えさせてよ。行っちゃったら二度と戻ってこれないんだろ?」
「それは人間としてよ。向こうに行けば、あなたも妖精になるのよ。でも、今日はまあいいわ。別に急いでいる訳ではないから」
雪は小降りになり、電車も運転を再開した。太一は勘定を払い、バーを出た。駅まで歩く間、ジルが言ったことを考えた。酔いも手伝ってか、妖精になるのも悪くないような気がしてきた。
しかし、それ以来、ジルが太一の前に姿を見せることはなかった。あのバーに通い、氷が溶けて、グラスが鳴っても、ジルは一向に姿を現わさない。
「きっと、太一の代わりを見つけたのよ」
アキがぽつりと言う。
太一は少し後悔したが、この屈託の多い人生を続けてゆくことに決めた。
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