#文字数約5,500 手錠とその因果
いつもと変らぬ朝だった。私はそのつもりでいた。
毎朝目覚まし時計が鳴る数分前に目を覚ます。その直前まではたいてい夢のなかにいる。例えば犯罪を犯して迷宮に迷い込み、逃げ回ったあげく精根尽き果てて目覚めれた朝は、ベッドの周りの慣れ親しんだ空間に安堵する。カーテンの合わせ目から漏れる朝の光に照らされた壁際のテレビの画面。その表面に付着した埃。ベッドの脇に散乱する雑誌の表紙で微笑む少女。そういうものが悪夢から生還した私をしみじみとした心持ちにさせる。
しかしその朝、私は目覚めるまで都心に建つ瀟洒な造りの集合住宅の一室にいた。広いリビングの窓を開け放ち、ベランダに立って眼下に広がる公園の緑を眺めていた。
もう心配することは何もない。心地よい風に吹かれながら、私は幸福感に満ち足りていた。
そんな夢から目覚めた朝は、アラームが鳴るまでのほんの数分間でこれから始まる退屈な日常を受け入れる覚悟を決めるのである。アラームが鳴りだすまえに、ベッドから起きて窓を開ける。初冬の冷気を部屋に取り込み澱んだ空気を換気してみてもよい。しかし私は決してそうしようとしない。
今朝は朝礼でスピーチの当番だ。何をどう話して五分の間を持たせようか。報告書の提出期限は過ぎているからその言い訳も考えておかなくては。さあアラームよ、さっさと鳴ってしまえ。
半睡状態でそんなこんなことをうつらうつらと考えながらベッドに潜ったままでいる。そういういつも通りの朝のはずだった。
しかし聴こえたのはアラーム音ではなかった。硬質で鋭角的な、聴き慣れてはいるが、今このときにはそぐわないチャイムの連続音が狭い部屋に響いている。つまり誰かが玄関で呼び鈴を押しているのだ。こんなに朝早くから誰が訪ねてきたのだろう。親戚が急死したとしても電話で済むではないか。それとも近所で火災が起き、隣室の者が知らせてくれているのだろうか。いずれにしても尋常な用件ではなさそうである。
チャイムは鳴りつづき、どすんどすんと鈍い音も響いている。訪問者は呼び鈴を押しながら扉を叩いているようだ。混濁していた意識をようやく手繰り寄せ、私はベッドから起き上がった。
扉を開けると二人の壮年の男が立っていた。いずれも地味な背広を着て鋭い眼つきである。
「何某さんですね、我々はC警察署の者ですが、あなたを逮捕しにきました。これが令状です」
背の低い方の男が背広の内ポケットから茶封筒をだし、紙片を抜きとり私の目の前にかざす。
「逮捕……だと?」
起きぬけの定まらない意識ではあったが、私は狼狽した。
「駐車違反です。あなたは反則金を納めていない。度重なる督促にも無視しつづけましたね」
思い当たるふしはあった。数年前この部屋に引っ越してきた際、友人から借りたワンボックスワゴンで家財道具を運んだ。その晩はこのアパートの近所に路上駐車したが、翌朝、タイヤに白いチョークで印しがしてあり、ドアミラーには黄色い輪が括りつけてあった。
たかだか駐車違反で逮捕するというのか。それも一度だけではないか。よりたちの悪い者は他に大勢いるのに何故自分なのか。
ひと通りの抵抗は試みてみた。しかしふたりの男は慇懃に
「規則だから」と言い「自分たちが逮捕を決定したわけではない」と言った。
常套句で辛抱強く応じる彼等に、私は抵抗を諦めた。部屋に戻り、パジャマから軽装に着替え、携帯電話をジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
私は背の高い方の男ら後ろ手に手錠を掛けられ、アパートの脇に停まっているクルマの後部座席に座らされた。手錠を掛けた男が私の左側に座り、令状を出した男が運転した。
早朝の道路は空いていた。私は葉を落とし始めた街路樹の枝に停まり、鳴き交わしている鴉たちを眺めながら、この屈辱的な状況に対して、どう折り合いをつけるべきかを探っていた。
「手錠は大げさだけど我慢してくれよな」
左側に座った男は、私があっさり投降したことに安心したのか、そんな言葉をかけてきた。
「どこに連れて行かれるんですかね?」
「C署です。そこで調書を取ったあと簡易裁判所へ移送され裁判を受けてもらう」
「裁判って、拘留されたりします?」
「いや、裁判と言っても手短なもので、大抵は数分で終るよ。罪を認めてその場で反則金を払えばそれで済むんだ」
駐車違反とはいえ反則金を払わず督促にも応じなければ、突然逮捕されることもあるとは聞いたことがある。しかしまさか自分が当事者になるとは思ってもみなかった。とは云うものの、起った事象は受け入れる以外はなさそうである。
「C署で朝飯は食えます?」
私は左脇に座る男に訊いてみた。
「自販機で菓子パンとジュースが買えるよ」
「つまり手錠を掛けられっぱなしってことはないわけね?」
「決まりごとだからね。あんたのように物分かりの良い人ばかりではないからさ。手錠は基本的に移動中だけだよ」
「逃げようとする人なんているのかね?」
「ごく稀にだがいる。署に着いたら手錠をはずすよ。取り調べのまえに朝食をとってもらって結構だ」
C署三階の交通課フロアには、制服姿の者と地味な背広姿の者が混在していた。私は奥の小部屋に通され、そこで手錠をはずされた。許可を得て携帯電話から勤務先に電話をかけた。応対にでたのは、去年銀行を定年退職して私の職場に天下ってきた者である。誰よりも早い時間に出社すること意外これといって特徴がないその男は、ぎっくり腰で休むと告げた私に
「わかりました」
と冷ややかに応えた。
エレベーター脇に接地されている自販機で買った焼きそばパンを齧り、紙パック入りの牛乳をストローで啜っていると
「さあ、もういいかな」
私に手錠を掛けた男が部屋に入ってきた。
「相違ないです」
取り調べが始まると、私は全ての質疑にそう答えた。机上の調書の空欄に文字が埋められてゆく。武骨で節くれだった指からは意外なほど繊細な字体であった。そのとき突然のドアが開いて、制服姿の警官が部屋に入ってきた。夜勤開けであるらしいその警官は「失礼しました」と頭を下げ、あわただしく部屋を出ていった。私はその警官に見覚えがあった。
それは三月ほど前の、やはり朝のことである。
私は毎朝始業の一時間前には出社する。勤勉なのではなく通勤ラッシュが嫌いだからである。通勤ラッシュ時のあの芋洗いのような車両で吊革に掴まりじっと耐えるよりは、一時間早く起きても空いた座席に悠々と座りたい。
ところがその朝は寝坊した。始業に間に合わないかもしれない。私は自転車で駅に向かった。駅までの途中に交番がある。交番の前に立っている警官と目が合った。警官は私に手招きをしながら言った。
「停まりなさい」
私はそれを無視してペダルを漕ぐ。警官は走って追いかけてくる。
「その自転車、止まりなさい!」
警官は走りながら叫んでいる。
「うるせえな! 遅刻しそうなんだよ!」
ペダルを漕ぎながら振り向いて怒鳴り返す。私は競輪選手のように尻を高く上げてペダルを踏み込んだ。
駅に着き、駐輪場で自転車に鍵を掛け改札に向かう。
「待ちなさい!」
なんと警官が追いついてきた。もの凄い形相で私の行く手を阻んでいる。
「どけよ! 朝から善良な市民に因縁つけてんじゃねーよ!」
私は両手で警官の胸を突いた。
「その自転車の持ち主を知っているぞ! きさま、盗んだな!」
通勤ラッシュ時の駅は人で溢れている。私と警官は構内で人の流れを停滞させている。皆が批難がましい視線を私に向けて改札を通過して行く。制止を無視して改札を抜けようとする私に、警官が警棒を抜きかけた。
「よし、これがおれの身分証明だ! きっちり調べろ!」
私は財布から運転免許証を抜き取り差しだした。警官はそれを手にとり暫らく見入っていたが表情を一変させた。
「申し訳ありませんでした。私の間違いでした」
警官は顔色を変え、謝り始めた。しかし私の怒りは収まらない。
「朝からヨタかましやがって! きさまのせいで遅刻じゃねーか! そんなことだから誤認逮捕ばかりなんだぞ!」
私は怒鳴りちらし、警官は平伏している。通勤者たちの批難轟々たる視線が増す々私をエキサイトさせる。
「きさま、名前何ていうんだ! 場合によっては只じゃ済まさないからな!」
「は、Hといいます」
「ようしHだな、もういい、行けよ! でもこれで済んだと思うなよ!」
都心に向かう混雑を極めた急行電車の吊革に掴まり、私は起ったことを反芻してみる。しかしことの成り行きの因果関係を解き明かすことはできなかった。
終点に近い人の乗り降りの多い駅で、楽な姿勢が保てるよう身体を入れかえたとき、歯科大学専門の予備校の中吊り広告が目にとまった。
そういうことか。
私は了解した。
私には偏執的なところがある。所謂オタクというものとは若干ニュアンスが異なるが、なにかの弾みで心の片隅にあるスイッチがオンになると、軌道を逸した行動にでてしまうことがある。それは大抵の場合私を狭い処に追いこむのだが、ときとして思わぬ収穫をもたらすこともある。
ひとつの例はダイエットである。私は百キロを超える体重を実質四ヶ月で七十キロにまで落としたことがある。
きっかけは歯痛だった。何ヶ月もしくしく痛む虫歯を、市販の鎮痛剤が効いているうちは問題がなかろうと放っておいた。しかしある深夜、それが猛烈に痛みだした。手持ちの鎮痛剤を全て服用しても一向に痛みが引かない。絶え難い痛みに私は決心して救急車を呼んだ。
とある大学病院の口腔科に運ばれて緊急治療を受け、タクシーで帰宅して鏡を見ると、片頬が口内にピンポン球を含んだように腫れていた。以来数週間、食事は豆腐や素麺等の歯に負担がかからぬものしか口にできず、気がつくと体重が五キロ減っていた。
そこでスイッチがオンになってしまった。その日以来、私はほうれん草や小松菜等の緑黄色野中心の食事に切り替えた。穀物は一切摂らず、空腹感は春雨やところてんで凌いだ。就寝まえに運動を始め、当初は五回も出来なかった腹筋も、一ヵ月後には連続して三百回が可能になり、そのころにはスクワットも二百回を数えるようになっていた。
しかし語りたいのは、体重が減るまえの、肥満自慢のテレビタレントのようだったころのことである。
当時、私は自転車を漕いで深夜のコンビニやレンタルビデオ屋を徘徊し、度々警邏中の警官に呼び止められ、職務質問されることがあった。その度に自転車の登録番号をチェックされ、身分を証明するために運転免許証の提示を求められた。
深夜、私に職務質問した警官たちにあのHが含まれていたかもしれない。だとすれば、巨腹を揺らしてレンタルビデオショップから出てきた私と、短期間に体重の三割を削ぎ落としたあの朝の私を別人と勘違いしても不思議はない。
最後に質疑の全内容を読み上げた男に、私は今一度「相異ありません」と答え調書に署名した。左の人差し指で拇印を押し、取り調べは終了した。
C署から裁判所へ移送される際も付き添ったのは早朝の二人組みであった。今度は手を前に組まされ手錠を掛けられた。上半身をシートの背もたれに預けることができて、さっきよりも楽な姿勢がとれた。時刻は通勤ラッシュ時だったが裁判所はC署より郊外にあり、渋滞しているのは対向車線であった。
調書を書いた男はすっかり安心したのか、運転する男と世間話を交わしている。購入したマンションの管理人があまり仕事熱心ではないこと。ゴミを出す日にはきまって鴉が突いたゴミ袋から生ゴミが道路に散乱すること。それをいつまでも片付けようとしないこと。運転している男は、それなら住民の署名を集めて管理会社へ訴え管理人を替えてもらったらどうか、などと応じている。そんな、いかにも役人が交わしそうな会話をぼんやり聴くうちに、クルマは裁判所に到着した。
裁判所の職員に引き渡された私は、壁際にベンチが設置された狭い部屋に連れて行かれた。そこで簡易裁判の順番を待つのである。待っているのは私だけではない。見るからに凶悪な人相の男たちが手錠を掛けられ座っている。皆押し黙ったままである。部屋の入口には制服姿の屈強な警官が立っている。隅には便所があるが扉はなく白い和式の便器が剥き出しになっている。ここに来た者は用をたすときも見張られるらしい。
「たかだか駐車違反でこんな目にあうとはね」
私は呟いてみた。呟いたというよりも、この悪相の男たちに宣言したかった。おれは違うのだ。おまえ達はたぶん轢き逃げや当て逃げの類いだろうが、おれは断じて違うのだ。善良な市民なのだ。
「え? おたくもですか?」
向かいに座っている男が応えた。
「おれも駐車違反だけど、朝起き抜けにいきなり手錠ですよ。彼女がびっくりして泣いちゃうし」
そう受けたのは隣に座っているジャージ姿の若い男である。私の見立ては外れたようだ。狭い部屋には奇妙な連帯感が生じ、和やかな空気が流れ始めた。
裁判はC署での取り調べよりも更に手短に済んだ。相違ありませんと答え、署名し拇印を押した。幾らか利子がついた反則金を納め、私は釈放された。
さて、私がお縄を頂戴したことと、公衆の面前で罵倒された警官Hの屈辱感との間には、因果関係はあったのだろうか。
いずれにしても、私はいまでも酒に酔った帰り道にあの交番を覗きこむことがあるのだが、警官Hは決して私と目を合わそうとはしないのである。
<了>
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