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"陰"にも"陽"にも属さない 巨人軍の秘蔵っ子 寺内崇幸


 先日、球界屈指のユーティリティプレーヤーだった木村拓也氏の10回目の命日を迎えた。
 SNS上には過去の名プレーや活躍シーンが拡散され、これから先も当時を知らない世代に彼の勇姿を受け継いでいってほしいと思ったところだ。

 さて、そんなユーティリティプレーヤーといえば私は真っ先に木村拓也の名を思い浮かべるのだが、彼の没後も巨人軍には"名スーパーサブ"がいた事を忘れてはならない。

 堅実なディフェンス力はもちろん、その意外性のある打撃でも「エースキラー」と称された男 寺内崇幸だ。


1.寺内崇幸という男

 まずは寺内崇幸の概要をおさらいしよう。

寺内崇幸 (てらうち たかゆき)
1983年 5月27日生 
栃木県出身 右投右打 内野手

栃木工高
JR東日本
読売ジャイアンツ (07年〜18年)
栃木ゴールデンブレーブス(監督 19年〜)

 高卒で社会人へ進み、2006年ドラフト6巡目で巨人入り。
 決して目立った選手ではなかったが、走力と肩力含めた守備力や小技の評価を得て、1年目から春季キャンプは一軍で迎える。

 しかし1年目シーズンは二軍で過ごし、2年目の2008年3月29日に小笠原道大の代走としてプロ初出場すると、同年5月24日の西武戦でスタメン起用され初打席初安打をマーク。さらにその一週間後のソフトバンク戦では延長戦で一時勝ち越しのタイムリースリーベースを放ち初打点も記録。
 結局この年は80打席ながら打率.301と、評価が高くなかった打撃でアピールに成功した。

この頃から、その"意外性"は垣間見えていたということになる。


2.エースキラー

 3年目の2009年には自身初の開幕一軍を勝ち取ると、4月18日の中日戦にて、バットを大道典嘉ばりに短く持って振り抜いた打球は広いナゴヤドームのレフトスタンドで待つ巨人ファンの元へ。プロ初ホームランは決勝の勝ち越し弾となった。チームが苦しめられていた中日の左のエース チェン・ウェインからの値千金の一撃だった。
 この日の試合後、緊張しつつも喜びと興奮を隠しきれず、終始微笑みながらのヒーローインタビューでは、とてもアラサーとは思えぬ初々しさを感じた。

 また、この日がエースキラーの幕が上がった瞬間でもあった。


3.キムタクのように

 2010年、木村拓也の訃報がチームに流れる。
緊急時のチームを救ってきたキムタクの後釜として、原監督がひとつの指示を下す。寺内の捕手練習だ。
 寺内はプロ入り前までは遊撃手専門で、プロ入り後は二塁をメインで守ってきた。他にも三塁も守ったが、あのキムタクのように外野や捕手まではやってこなかった。
 しかし寺内の起用さに目をつけた原監督は、キムタクの影を寺内に重ね、緊急時に備えさせたのである。


4.競争

 2011年は古城茂幸との内野守備要員争いを制し3年連続で開幕一軍を掴む。守備固めや代走といった今日が主ではあるが、故障者が出た際にはスタメンでも起用され、自己最多の8打点を挙げるなど、必死に一軍に食らいついた。

 翌2012年は前年盗塁王の藤村大介や古城らとの二塁手争いを制して初の開幕スタメンを勝ち取る。
 シーズンは藤村との併用という形になったが自己最多の103試合に出場。出塁率は3割を超え、打率も.242とこれまでと比べるとまずまずの成績を残し、盗塁は自身初の2桁11個マークした。
 また、この年に放ったプロ第2号ホームランは阪神のエース能見篤史からで、CS第6戦ではこの試合の勝利打点となる2点タイムリーを放ちチームの日本シリーズ進出に貢献するなど、ここでも"意外性"は健在であった。


5.リーグを代表するスーパーサブ

 2013年、開幕から一軍に帯同し、キャリアハイの114試合に出場。打席、安打、本塁打、打点等で自己最高をマーク。更にはこの年のオールスターゲームに、中日のルナの代役として初選出。選出した全セの原監督は「彼はどこでもできる。その気になれば捕手もできる。スーパーサブという面では、セ・リーグを代表する選手だと思う」と太鼓判を押すという絶賛っぷり。

 極めつけはポストシーズンだ。
 まずはCS。広島とのファイナルステージ第2戦。相手はセ・リーグを代表するエース 前田健太。甘く入った変化球を最後は片手1本でレフトスタンドへ。この先制3ランが決勝点となりチームは日本シリーズ進出に大手をかけた。

 更に日本シリーズ第2戦ではこの年24勝無敗で被本塁打わずか6本だった球界のエース 田中将大から大殊勲となるホームラン。

 同期ながら球界のトップに君臨していた前田、田中両投手に苦労人の意地をぶつけてみせた瞬間だったように思えた。

 そしてこの年から周囲は彼の事を「エースキラー」と呼ぶようになった。


6.怪我との戦いから

 ファンの記憶に残る活躍を見せた2013年シーズンから一転、翌年からはケガに悩まされることになる。
2014年は右肩痛で出遅れ、実戦復帰したかと思えば左ふくらはぎの肉離れで戦線離脱。翌2015年も左ふくらはぎの肉離れを再発してしまう。
 しかし寺内は這い上がった。9月に一軍復帰すると、9月23日の阪神戦で絶対的守護神 呉昇桓から人生初となるサヨナラ打を放った。大一番での勝負強さは相変わらずであった。


7.晩年

 2016年はFA権を取得したが封印。後の引退会見にて、
もともと現役で30を過ぎてから、他でプレーをするという頭はなくて、ジャイアンツで長く頑張っていこうというのを目標にしていた。」と語っているように、巨人一筋でやっていく決意の表れだった。

 34歳になった2017年。この年はスタメン出場はなく、守備固め中心となる。
 9月5日 長野県松本市での中日戦。この日も途中から二塁の守備に就いていた。試合は同点で延長に突入。
 延長11回裏 1死二,三塁で打席に入った寺内。この試合の9回裏あのゴルフ打ちで同点2ランを叩き込み延長に持ち込んだ宇佐見真吾(現日本ハム)がベンチで両手を合わせ祈る中、中日 福谷の放った151km/hのストレートは松本市野球場の場外へ消えた。初のサヨナラ本塁打。

 寺内崇幸 現役最後の感触だった。

 これまで放った本塁打はフェンスギリギリばかりだったが、寺内らしくない、非常に飛んだ当たりだった。

 私もリアルタイムで見ていたが、心の底から叫び鳥肌に包まれながら、雨の中歓喜のホームインをする背番号00のヒーローの様に両手を上げて喜んだのを覚えている。


8.引退後

 その後、一軍出場0に終わった2018年のオフに戦力外通告を受け、寺内はユニフォームを脱いだ。


 真面目で謙虚で寡黙で、それでありながら時折見せる弾ける笑顔。

  陰でも陽でもない存在感

 若手時代はベテランのような落ち着いた雰囲気を感じたものだが、歳を重ねると若手のような無邪気さが際立つ不思議な存在。

 先輩からは可愛がられ、年下からも適度に弄られる巨人軍の次男坊の様な存在。

 木村拓也を巨人の秘密兵器とするならば、寺内崇幸は巨人の秘蔵っ子という印象だ。


 2019年からは地元の栃木ゴールデンブレーブスの監督に就任。
 その謙虚さや皆から愛された優しい人柄の寺内が時に非情な采配をするのかと思うとなかなか現実味がなかったものだが、今年は二年目のシーズンを迎える。
 いつかは巨人のユニフォームを着て自身のようなエースキラーかつスーパーサブの育成に注力して欲しいものだ。


9.最後に

 その寺内から背番号00を引き継いだ吉川大幾にはスーパーサブとしての活躍を期待したい。もう後がない立場だと自覚しているはずだが、なんとかあの頃の寺内のように一軍にしがみつき、少ないチャンスを掴んで欲しいものだ。

 最後に、吉川大幾と共に崖っぷち組ながら故障で遅れを取っている立岡宗一郎の早期復帰を願いながら締めとします。

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