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暗黒打線の希望だった立岡宗一郎 さぁ甦れ


 ようやくこの男が帰ってきた。

 ジャイアンツ球場で真っ黒に日焼けしていることで白い歯が一層際立つ。

 背番号は39になっているがスタンドにちらほら見えるユニフォームは58番のもの...

 みんな忘れていたわけじゃない。だけど、新しいユニフォームを新調するほどでは...そんなことはどうだっていい。

 BON JOVIに乗せて立岡宗一郎が東京ドームに帰ってきた。


復活を印象付けた1631日ぶりに架けた大アーチ

 9月16日 対阪神戦 昨年7月27日以来のスタメンに名を連ねた立岡は、左翼で序盤2度の好守備を魅せると、バットでは第2打席に今季初安打初打点となるタイムリーヒットを放つ。
 さらに第3打席では2016年3月30日以来1631日ぶりとなる本塁打をライトスタンド中段に叩き込んだ。恐らくキャリアで1番飛んだのではないかと思うほど大きなホームランだった。

 競争社会で生き残るには結果を出すしかない。
 それはこの男自身が最も分かっていることだ。だからこそこの数年は本人にとっても、我々ファンにとってももどかしいものだった。


掴みきれないレギュラー

 昨年は同じ外野のポジションにFAで丸佳浩が加入。ベテランの亀井善行を追いやることもできず、重信慎之介や石川慎吾との競争に負けた。
 2018年は9月23日の阪神戦で藤川球児から勝ち越しタイムリーを放ちヒーローになったがそのほか目だった活躍は無く42試合の出場に留まる。
 2017年は開幕スタメンに名を連ね、6月頭くらいまでスタメンで出続けたものの(今やネタ化している中井大介との1,2番だ)、なかなか成績は伸び悩み、キャリア2番目となる62試合に出場するも打率は.208に沈んだ。

 近年の巨人軍は選手の入れ替わりが激しく、功労者である内海哲也、長野久義、今季は澤村拓一までもが放出されている。
 その中で私自身何度も"覚悟"はした。しかし生き残ってきた。
 やはり皆、あの頃の姿の復活を期待しているのではないだろうか。暗黒打線と言われた2015年の。

低迷する打線の中に彗星の如く現れた男

 2015年 巨人打線は苦しんだ。坂本勇人、長野は規定打席には到達したものの揃って打率が低迷。阿部慎之助、村田修一も幾度と戦線離脱して規定打席にも届かず、成績もキャリアワーストレベルに低迷した。
 この年は投手陣がリーグトップの防御率であった一方、チーム打率はリーグ最下位と極端な投高打低なチームだった。
 この年優勝したヤクルトとは1.5ゲーム差の2位でフィニッシュしているため、打撃陣次第で優勝も狙えただけに勿体ないシーズンだった。

 そんなチームで5月下旬に一軍に合流したのが当時25歳、7年目の立岡だ。

 昇格直後の5月は22打数9安打で打率.409、8月には月間112打席に立って打率.400と打ちまくった。

 2番を打っていた片岡易之と共にスピード感溢れる1,2番でもあった。(片岡21盗塁 立岡16盗塁)

 暗黒と言われた打線の中で間違いなく首脳陣の、そして我々ファンの希望そのものだったのだ。


怪我の功名

 立岡は10代の頃からスピードスターとして日米のスカウトマンから注目を浴びた逸材外野手だった。
 しかし2009年のプロ入りと同時に憧れの松井稼頭央の影響もあってか、ショートコンバートを志願。しかし同時期は絶対的ショートストップ川崎宗則がおり、メジャー移籍後は今宮健太が定着と出番がなく、そのまま2012年6月に22歳の若さで巨人へトレードされた。
 鳴り物入りで入団した立岡のソフトバンク時代の出場試合数は代走の1試合のみだった。

 しかしこのトレードは立岡にとって野球人生を大きく左右する転機となる。

 移籍直後の二軍戦で味方と交錯し左肘靭帯を断裂。これがきっかけで右打ちから左打ちに転向。すると秋のフェニックスリーグで打率.300越をマークしポテンシャルの高さを見せた。しかし、秋季練習中に次は左足首の靭帯を損傷。
 22歳の若武者には酷すぎる、長い1年となった。

 それでも立岡は翌2013年5月に左打者としてプロ初安打を記録。左打者転向後わずか8ヶ月で一軍の投手に順応してみせた。

 あれから時は流れて2020年。立岡ももう30歳になった。
 今季こそ正念場と迎えたシーズンだったが2月に右手有鈎骨。3月に手術と出遅れてしまった。

 それでも心は折れず、リハビリに取り組み、阿部2軍監督から「神様は見ているからな」と励まされながら必死に準備をしてきた。

 そして迎えた9月16日 この日虫垂炎で入院した元木大介に代わり、ヘッドコーチ代行として一軍ベンチに戻ってきた阿部二軍監督の前で復活のアーチを架けてみせた。

 幾度の怪我を好転させ、蘇ってきた立岡宗一郎がそこにいた。


最後に

 立岡の移籍時、巨人にはドラフト同期で同い年の大田泰示や橋本到がいた。
 しかし、大田は巨人で花開かず日本ハムへ移籍。橋本も度重なる怪我もありレギュラーは掴めず引退。巨人には立岡だけが残った。

 2015年、あの苦しかったチームを知っている巨人現役野手も今では亀井、坂本、小林誠司、そして立岡のみだ。
 当時は第二次原政権の最終年。今思うと立岡宗一郎の復活は原監督の置き土産だったのではないだろうか。

 そして今季、再び原監督の下で再起をかけて奮闘している背番号39の姿がある。

 何かと話題の93年組とは実績が違う。
 規定未到達とはいえ25歳シーズンで367打席で103安打、打率.304を残した選手が93年組にいただろうか。

 Bクラスに沈んだ2018年に史上最年少3割30本100打点を達成して巨人ファンの希望の光となった岡本和真がプロ入りした年、巨人ファンの希望は立岡宗一郎だった。

 先程「立岡ももう30歳になった」と言ったが訂正したい。
 まだ30歳。衰えるには早すぎる。まだまだやれる。

 是非とももう一花二花咲かせて欲しい。

私は信じている。次に我々に見せてくれるものは夢や希望ではなく、逆境から這い上がった苦労人の生き様だと。


 本人も望んでいる応援歌変更を切に願い締めとします。

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