床屋から学ぶ未知のあれこれ、くらがりチャレンジ
つい先ほど床屋に行って髪を切ってきた。そこはぼくが小学生の頃から通い続けておよそ10年近く経とうとしているお店だ。何年か前に隣に2号店ができて、そこは完全予約制のちょっといいところみたいなお店。まだ行ってないけど。
当然それだけ長い間通っているとオーナーや従業員が変わったり、いろいろな変化がある。ぼくも成長してある程度はお話ができるようになったり、少し大人に近づいてきて、その小さな床屋という場所からたくさんのことを発見できるようになった。そんなぼくが学んだことを忘備録的な意味を込めてつらつらと書き連ねていく。
コミュニケーションについて
現在ぼくが通っている方のお店は若い男の人が1人でお店を切り盛りしている。その人がお店に来たのは数年前で、その頃から切ってもらっている。最初はアシスタントだったのに立派になったんだなと他人事に思っていた程度の仲だった。
そんなだから当然、話は途中で途切れてしまうという仲だった。
しかし最近、ぼくが床屋では店員さんとコミュニケーションをちゃんと取りたいなと思うようになってから、話を続けられるように意識している。もちろん相手は話の引き出しが多いからいつも会話をリードしてもらっているんだけど。
そういった意識を持って話してみるとすごく面白い人だっていうことがわかった。基本的にぼくはずっと喋っていられるタイプではないし、面白い話をたくさんストックしているわけでもないから店員さんとぼくは9:1くらいで店員さんが喋っている。これまたおかしな話だと思うかもしれないけれどぼくは「相手に喋らせる」コミュニケーションを取るように立ち回っている。だからこんな結果になる。
ぼくがぼくをそんな面白い人間じゃないと思っていることに起因するのかもしれない。というか相手に喋ってもらう方がぼくは楽だ。
ぼくはその楽をするためにあえて楽じゃない道を歩む。ずっと自分のことだけを喋っているのが1番気持ちいいというのは知っている。ぼくもそうだ。だけどぼくは自分の面白さに消極的な姿勢ゆえにあえてこの道を歩んでいるのだと思う。相手を喋らせるために細心の注意を払う。これが最近の僕のコミュニケーションのモットーだ。
ひょっとするとこのお店に来ていなかったらぼくはこんなことを考えていなかったかもしれない。ずっと喋らないで、黙って髪を切ってもらっているか、ずっと自分の話だけをしていたかも。
その点、ぼくはここの店員さんに深い感謝をしている。なんせ面白いのだ、話を掘れば掘るほどぼくの知らない世界を聞かせてくれる。この時のぼくはまるで絵本を読んでもらう小さな子供のようだ。
きっと彼は僕とは全く違うタイプの人間だ。とても外向的な性格で、話がおもしろい。自分にないと思っているものを持っている。だからぼくは彼を引き出そうと試みるし、あわよくばそこから彼の一部を盗み出そうと企てている。
話の構成や、そもそもの話のネタの質、会話の繋げ方や引き出しの多さ、学べるところはたくさんある。
そして彼と話していると、なんと言っても話の引き出しが多いことがコミュニケーションにおいて重要なんだなと思える。全てを自分のフィールドに近づけられる。僕たちは知らないことは喋れない。もし喋ろうとしても適当に上っ面だけを整えた面白くもない話に陥るのが関の山だ。
だけど自分の理解が及ぶところ、知っている分野、類推できる範囲であれば僕たちは無限に喋れる。さらに言えば知らないことは質問してしまえばいいのだ。なんとすごいことだろう。
教養とはつまるところ、会話の引き出しを最大化して、全く関係のないように思える2つを繋ぎ合わせることができる能力なのではないだろうか。そうとさえ思えてくる。
彼の話も基本的に彼の交友関係からもたらされるものだ。だから彼の知らないことを僕は知っているし、僕にもたくさん話せることがある。だけどそれは俗的な話ではないことを僕はしっているし、大っぴらに話せるようにカスタマイズしたこともないからたまにしか喋らない。
会話の中身は多岐に渡る。例えばお店の経営裏話や私生活について、彼の人生観から客層に渡るまで様々だ。そしてそれはぼくが知っている世界からはかけ離れているからおもしろい。
目の前に宝が眠っていることを知っているからぼくはそこを掘り続けるし、地面は固くないから順調に掘り進めることが今のところできている。年齢が近いということもあるかもしれない。
だけど、ここ最近で僕たちの関係性は一介の客と店員からは変化したのではないかなと思う。これは洞窟のイドラかもしれないけれど。
ともかく、店員さんと仲良くなるというのは僕にとってくらがり(未知)だった。あえてそんなことをしなくても客と店員という関係はお金があり続ける限りは変化しないから。そこで一歩踏み込んでみる。するとそこは既に暗がりではなくなっていた。
こうやって世界を広げていくんだなと実感した。僕たちの世界は限られている。世界とは僕たちが「肌で実感すること」の範囲でしかない。教科書に書いてあることは僕たちの知識となるけれど、それを肌で感じるまでそれはまだ僕たちの「感覚世界」に組み込まれてはいない。
なにも危険なことは肌で実感する必要なんてない、というか頭が良ければ良いほど僕たちの世界は容易に広げることができる。
だからこのチャレンジは凡人だと思い込んでいる人間が世界の枠組みを広げる1つの手立てとなる。そしてそれは経験によってのみ血肉へと昇華できる。