伝えない
このタイトルを掲げてnoteを書く……と言う事自体、矛盾していると思うが(笑)あえてそこを、考えてみたいと思った。
どうして伝えようとしないのか?にフォーカスして考えたいなぁと。
「言っても仕方ないから」
「言えば傷付けるだけだから」
「言っても尚更、面倒くさい事になるだけだから」
大概はそこに行き着くのだろう。
でもそこが終着点では無く、そこに至った思考の変化は、今の私の受け止め方で見たら、どう思う?どう感じる?んだろう?
と思った。
父の思い
私の父は例えて言うなら昭和ゴリラ。
この一言。
今の若い方々には、とても信じられない話だろうが(笑)我が家の暗黙のルールをご紹介する。
1・父親がお風呂は1番最初。夕食も父が上座。父が席につくまで夕食はスタートしない。
2・親には敬語で話すべし
3・挨拶は、相手に聞こえるようにハッキリと!
4・門限は、自分で自分を養えるようになるまでは18時
……書いてて笑えてくる。
…でも、こんな今じゃあり得ないようなルールでも、私にプラスとなる長所も沢山くれたルールだと今は感謝している。
まぁ……出来る範囲内で反抗していた時期もあったが(笑)武道を嗜んでいた父がいる限り、不良の道を進むなど出来ようはずもなかった。
幼い頃、親戚一同が集まった時、酔った叔母達が口論を始めて大騒ぎになった事がある。父に「パパ、早く、帰ってきて」とチクった連絡したのは私。
だが、帰宅した父の鬼の形相を見て全力で後悔した。
「ヤバい!!………退避だ!!!」
自分の母親が怒鳴りまくっている姿を見て泣いている姪っ子達を、猛ダッシュで全員2階に上げて、下に降りたら…
「てめぇらは、実家に帰って来て飲んだくれて、子供らの前で何をしてんだ〜〜〜!!!!」
怒号と共に、料理やお酒が乗っていた木のテーブル。横に透かし彫りが施してある、やたら重い机。昔よくあった足が畳めないタイプの。
……あれを片足で思い切り踏み付けて、折ってしまった(笑)
ガシャ〜ン!!
料理もビールもアリ地獄のように机の真ん中に流れ落ちる様を見て、
「あぁ……叔母さん…
ハメ外した代償は、大きかったね…」
相当、愉快に、ちょっぴりは可哀想に感じながら廊下から覗いていた。
「おめえら。明日、俺が起きるまでに机も畳も買って元通りにしておけよ。そのまま帰ったりするなよ。自分達のやった事の責任をとってから、帰れ。
………わかったかああぁ〜〜〜?!?!」
ゴリラ父は近所中に響き渡るような咆哮を上げて風呂に入ってしまった。
「いやいや、机へし折ったの…あなたよね?」とかもうそんな経緯は、どっかに行ってしまっていた。
すくみ上がって、縮むフクロウ(オオコノハズク?だったかな?)みたいになっちゃった叔母達は、すっかり酔いも冷めたようで黙々と片付けをし始めた。
要はそんな父親だった。
無口で頑固で、口より先に手が出る。
そんな父だが、母が亡くなってからはほとんどご飯を食べなくなってしまっていた。
そして体調を壊して入院した。
家事は母が他界してから私達がやっていたので問題無かったのだが、退院後も何かと手伝ってくれた女性がいた。
快活で何でもテキパキとこなし、明るくて涙もろい人だった。
その方とお付き合いしていたのは知っていた。私達に知らせて来た事は無かったが、いつも一緒にいる。
多分、そう言う事なんだろうと思っていた。
でも、その時の私は「ふーん。そっか」としか感じなかった。
子供だから当たり前と言えば当たり前なんだが、
「お母さんが居なくなったから、次の人なの?!」などとは感じておらず、むしろ
「ご飯作ったりとか、掃除とか…やってくれないかな〜?」と思っていた。
父がその女性を家に呼ぶ事は一度も無かった。
そして実は父には度々、お見合いの話も持ち上がっていた。子供も居て、仕事もしなければならない。今のように扶養手当制度などがある時代でもなく、相当苦労をしていたと思う。
見た目もそれなりだった(らしい)父に、仲人歴の長い方がお見合い写真と共に度々、我が家へやって来ていた。
「パパ!!早く結婚しなよ!!!」
私達はその話が来るたびに父に言っていた。……家事から解放されたい。ひたすらその一心であった(笑)
父は静かに
「お前達は、もし新しいお母さんが来て、心から「ママ」と呼べるか?もし新しい兄弟が出来て心底「私の兄弟」と思えるか?
そんな中で家事の一切をやらせるのは、俺は出来ない。母親は、お手伝いさんじゃないんだ。」
と。
………まだ、私らは家事から解放されないのか………
幼い私達はひたすら残念無念であったが(笑)
今、思う事
父がお付き合いしていた女性の事も、私は自分の兄弟意外、誰にも話していない。
まぁ、話すような内容でも無いが、父の支えとなってくれたその方に、今は深い感謝とありがとうを伝えたいと思っている。
父が他界した時、病院にその方が居た。
待合室の隅で、目立たぬようにじっと座っていたその方は、父が息を引き取った事を知らせた時に床に崩れ落ちてしまった。
その時の、その方の思いを考えると涙が出て来る。
その後、どこで見ていたのか?
周りから
「お父さんて、付き合っていた女性がいたの?」
と沢山の大人達から聞かれた。
は?私の家族と関係無いあなた達が、なぜそんな事を知りたいの?つうか、何かしてくれたっけ?あなた達が?
イラッとしたが
「分かんないです!カッコいいから、多分、モテてたと思います〜!」
無知な若さを装って本当のことは決して言わなかった。
決して再婚をしなかった父の本当の気持ち。
それも私には憶測でしかないが、
お付き合いしていた女性を愛していたからかもしれない。
母をまだ、忘れられなかったからかもしれない。
大事な事は何一つ話さずに、50歳手前で母の後を追うように空へ帰って行ったが、たった1つだけ分かる事は
子供達を愛していた。
それだけはハッキリと理解る。
子供を手放すという選択肢もあった。
事実、母の早逝後に母方の祖父母が申し出たのを知っている。
「まだ、いまなら新しい家族を作る事も出来る。子供達とはいつ、会っても構わない。娘(八雲の母)が足枷になる事なく自由に生きて欲しい」と。
父は
「子供達は、俺の宝です。
俺が、責任を持って大人に育てます。手放す事は考えていません。」
と言ったそうだ。
祖父母から聞いた。
宝物…
あのゴリラ父が…
私達には一度だってそんな事を言った事は、無い。
パパ。
ありがとうね。
全部自分で抱えていた分、きっと泣きたい時もあったよね。
でも泣き言も一度も言った事が無かった。
本当にありがとう。
同級生のみっちゃん、覚えてる?
みっちゃんがお礼言ってたよ。小学校の時に、勉強が覚えられなくて皆んなに馬鹿にされてた時に
「誰でも得意、不得意があるだろう。お前ら、俺と川で泳いで競走しろ。俺が勝ったら2度とみっちゃんをいじめるな!」
って言って、川泳ぎで勝ったんだって?
さすがゴリラパパだね。ゴリラパパが怖くて誰も、何も言ってこなくなった、ってみっちゃんが笑ってた。
パパは、私の自慢のパパです。
あとね、謝らないといけない事があるんだ。
中学生の時に叱られて腹が立って、パパのお気に入りのカシミアのコートに、ファンタぶちまけたの、私です……
本当にごめんなさい……
追記………見開きの写真は、なんと我が家で溢れ種から育った這性ローズマリー。
友達の家にお嫁に行ったのだが…おそらく「こんなデッカくなるなんて聞いてないよ!!」ってぐらい大きくなると思う……
でも、伝えないでおこう(笑)
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