彼を吸い終えるまでの8年間の話
「サクラダ先輩、僕と付き合ってください」
蚊の鳴くような声が、涼やかな空気を微かに震わせた。
大学二年生の秋、校舎裏の喫煙所で。
告白された。サークル後輩のエコウくんに。
いやまぁ、予想通りではあった。
新歓の時から目を付けていた、温厚そうな男の子。
動物で例えるならば、まさに羊だ。
牧場の隅っこで黙々と草を食しているような。
向こうから好意を寄せられていることにも、うすうす気付いていた。
私は彼氏と別れたばっかで、ちょうど男を切らしていたわけで。年下もいいかなーって思えるくらいの余裕も芽生えていたわけで。
彼の告白は、私の目に好ましいものとして映った。
スレた私に比べれば、エコウくんは純粋だった。真面目でちょっと地味だけど、そこそこ整った顔立ち。自己申告によると「彼女いない歴=年齢」とのことで、ぴかぴかの新入生ということもあってか色々と初々しかった。
飲み会で相席になった時なんかはいい例だ。
ちょっとボディタッチしただけでも面白いくらいに反応するし、酔ったふりして体を寄せようもんなら哀れなほどに赤面してしまう。シラフのくせに、途端にろれつが回らなくなるんだな。
そういう、痛々しさと紙一重の初々しさ。
自分はとうに失ってしまったもの。
それを持っているエコウくんが、可愛くて可愛くて仕方なかった。
あのコいいよね、と私が熱弁すると、周りは決まって苦笑した。
「いやまぁ可愛いけれどさ……それ絶対、付き合ったらめんどいって」
女性慣れしてない男は厄介だ、ってのが友人たちの弁。だからいいんじゃん、ってのが私の言い分。
「キレイなものは、汚したくなるじゃない?」
「すっごい今更だけど、ワカバって厄介よね」
「知ってる。毒を以て毒を制するわけよ、分かる?」
「そんなんだから男に捨てられる」
「それも、知ってる」
今まで7人の男と付き合って、私の方から別れたことは一度もない。
理由は簡単。
いつも相手の方が先に疲れて、折れてしまうから。
「まー頑張って、悪女ちゃん」
無気力なエールを送られるのも、毎度のことだった。
──さて、めでたく告白されちゃったわけだけど。
まさか六限の講義終わりに、しかも喫煙所に立ち寄ったタイミングでやって来るとは予想していなかった。
エコウくんなら、何回か遊びに誘い出してから告白、みたいなパターンを選ぶんだろうなと思っていたから、けっこう意外だった。
待ち伏せか、やるね。
世間話のジャブもなしに開口一番ってのは、さすがに唐突すぎるけどさ。
心の中でささやかな拍手を送りつつ、タバコの灰を落とす。それから、目の前で震えている、羊のような男の子を見つめた。
「ごめん。今、なんて? 大きい声で言ってくんない?」
首を傾げて、にこやかな表情をつくってみせる。
「あ」とも「ん」ともつかない声が、エコウくんの口から漏れた。それでも、彼なりに覚悟を決めたようで──泳いでいた視線が、やっと私の顔に収束する。
「サクラダ先輩のことが、大好きです」
「うん知ってた。それで?」
「僕と付き合ってください。それから、タバコやめてください」
「いいよ。無理」
「ど、どっちなんですか」
「一文目はOKで、二文目はNGってこと」
エコウくんは、嬉しいんだか不満なんだか分からない、微妙な温度の表情を浮かべていた。
「タバコ、なんでやめないんですか」
「やめられないし、やめる気もないから」
タバコをスタンド灰皿に放って、私はバッグからシガレットケースを取り出す。眉をしかめるエコウくんを横目で見つつ、二本目に火を点けた。
「エコウくん、嫌煙家だったんだー?」
「……はい。タバコは嫌いです」
「ふーん。で、どうする? さっきの台詞の一文目、撤回すんの?」
エコウくんの目が、驚いたように見開かれる。
私はあくまで微笑んだまま、ゆっくりと煙を吐いた。
「私はいいよ、それでも」
夏の夕暮れに冷やされた、生ぬるい風が吹き渡る。
数秒の沈黙のあとで、エコウくんが口を開いた。
「……サクラダさんは、僕のことが嫌いなんですか」
「嫌いじゃないよ。むしろ好きだよ」
でもね、と私は続ける。
「きっと、エコウくんが私のことを想ってくれてるほど、私は君のことを想ってない」
ぶっちゃけた話、エコウくんじゃなくても別にいい。告白してきそうな男の目星は、他にもついている。エコウくんがダメなら、私は他の「候補」の好意に応えるだけなのだから。
「私としては、付き合っても、付き合わなくても、どっちでもいいの。あとはエコウくんの問題」
「僕の問題、ですか」
「そう。私は寛容だから、タバコ嫌いな君とも付き合える。でも、タバコはやめない。煙を我慢して私と付き合うか、それともタバコ嫌いな自分を優先するか。どっちを選ぶ?」
「両方です」
予想に反して、即答だった。
ぽかんとしている私を前にして、エコウくんは言葉を続ける。
「設問からして不適切ですよ。二者択一にする必要が感じられません。複数解でも成り立つじゃないですか。だから、両方です」
いつ間にやら、彼はもう震えてはいなかった。はっきりとした声で、凛とした視線で、私に向き合っていた。
「……エコウくんは、アレだね、ずいぶんと厄介そうだね?」
「よく言われます。理屈っぽくてわがままなだけなのに」
「そんなんだから彼女ができない」
「それも、よく言われます」
苦笑するエコウくんにつられて、私も笑う。やっぱり、彼はまっすぐだ。
真面目さの方向性が正しいかどうかはさておき、素直であることには違いない。いや、愚直と言った方が適切か。
「まー、私も厄介なやつらしいけどさ」
「ええ、存じ上げてます」
「へえ、知ってたんだ?」
「元彼さんたち──ウエダ先輩とかシモカワ先輩に相談したら、揃って『あいつだけはやめとけ』と忠告されました」
「予想以上にひどい言われようだね」
「まあ『被害者の会』を自称するくらいですし」
「そんなもんまでできてたの……」
ふぅ、と深呼吸。煙の混じった溜息が、ふわりと宙にほどけた。
「言っとくけど、私は浮気しない主義だから。ただ性格が面倒なだけで」
「面倒さなら、僕も負けません」
そこは張り合うところなんだろうか。
あまりにも大真面目な顔で言うもんだから、私はついに吹き出してしまった。エコウくんはと言えば、何がおかしいのか分からないとでも言いたげにむすっとしていた。
「で、どうなんですかサクラダさん。OKなのかNGなのか、どっちなんですか」
生殺しは勘弁ですよと付け加えて、彼は首を傾げた。
答えなんて初めから決まっていた。
私は、自分から振ることはしない。
いつだって、相手から勝手に愛想を尽かされるだけで。
二本目を吸い終わって、スタンド灰皿に放った。
じゅっ、と湿った音が鳴る。
同時に、私はとびきりの笑顔を浮かべて、言った。
「──いいよ。彼女第1号になってあげる」
そんな感じで、私たちは付き合い始めたのだった。
***
付き合い始めてから分かったのは、エコウくんが予想以上に面倒だということだった。
いや、普段の行動が奇特だとかそういうことじゃない。
メールや電話について口うるさく指定するわけでもなければ、男友達との付き合いに関して束縛するわけでもない。そういう部分に関しては、本当に寛容だった。
エコウくんが厄介な一面を見せるのは、私が喫煙しているときだ。彼は私が思っていた以上に、タバコ嫌いだったのだ。
「僕のいるところではタバコを吸わないでください」
交際にあたって、エコウくんは私にそんな「約束」をさせた。私としては、これっぽっちも守る気がなかったから、ほとんど聞き流していた。
なんだかんだ言って、彼は弱気な性格だと踏んでいたから、押し切ってしまえばどうにかなると思っていたのだ。
でも、その読みは早々とハズレた。
最初のデートの時から、本当に厄介だった。
近所の街を適当にぶらぶらしていた時のことだ。歩きながら、いつものようにタバコを吸おうとしたところで、エコウくんに制された。
「タバコ、ダメですよ」
「いいじゃん、ここ路上喫煙は禁止されてないよ?」
「サクラダさん、僕と約束したじゃないですか。僕のいないところで吸ってください」
はっきりいって面倒くさかったけれど、私だってそこで意地を張るほど子供じゃない。ちょうど道ばたに喫煙所があったから、「じゃあちょっと待ってて」と言い置いて、足を向けたわけだ。
ライターを取り出して、火を点けて──
煙を吐き出すと同時に、横から声がかかった。
「サクラダさん、タバコくさいです」
すぐ隣に、エコウくんがいた。
いやいや、なんでわざわざ付いてきたのあんた。
「僕のいないところで吸ってください」
「いや、だからこうして喫煙所にきたわけで」
「約束違反です」
泰然とした態度で、言い放たれる。
手を出してくるわけじゃない、ただそばに立っているだけなのに、まとう雰囲気には有無を言わせない重みがあった。
威圧的な視線に圧されて、私は渋々、反対側のスペースへ移った。なぜに喫煙スペースで嫌煙者に配慮しなくちゃならないのか。でも、もっと不可解だったのは、エコウくんがまた私の後に付いてきたことだった。
「……だからさ、なんで付いてくんの。離れた意味ないじゃん?」
さすがにイラついて、語気も自然と強くなる。それでもエコウくんは、特に気にした様子もなく、相変わらずの調子で口を開いた。
「サクラダさん、タバコくさいです」
「……えーっと」
──ウザい。心底、ウザい。
ふぅ、とこれ見よがしに溜息を吐いた後で。
私はタバコをくわえたまま、喫煙所から脱兎のごとく逃走した。予想通りと言うべきか、間を置かず、背後から軽快な足音が響く。
瞬く間に、ぐんぐんと迫ってくる。
そして。
「僕のいないところで吸ってください」
私の横にぴったりと並ぶ形で、エコウくんが走っていた。憎々しいまでの爽やかな笑みを浮かべながら。
「付いてくんなって!」
「タバコの火を消せば済む話ですよ?」
「いやいや吸うから!!」
全力疾走で、喫煙。
ある意味で貴重な経験をして以来、私はエコウくんの目を避けて喫煙するようになった。それでも吸いたくなった時は、彼の寄り添い攻撃をガン無視してやり過ごすようにもなった。
自然と思い出されるのは、エコウくんの誕生日のことだ。
10月30日の夜更け。
日付も変わろうかというタイミングで、彼は何の連絡もなしに、私のアパートまでやって来た。
ドアを開けるやいなや「プレゼントください」ときたもんだ。いや、彼氏の誕生日を忘れてた私も大概だけどさ。
ひとまず部屋にあげたはいいものの、プレゼントなんて用意してないわけで。おまけに私の財布は、散財が祟ってほとんど空っぽだったわけで。
でもさすがに何もあげないのは心苦しいよね、ってことで、仕方なくコンビニに行ったんだ。
「というわけで、はい。プレゼント」
チロルチョコ(コーヒーヌガー味)を四つ手渡した時の、エコウくんの仏頂面は忘れようもない。
「手持ち、五十円玉しかなかったから」
一応の弁解をして、私は一服しようとベランダに出た。
「ワカバさん」
締め切ったガラス戸に、エコウくんがトカゲよろしく張り付いていた。
「タバコは一日に何本くらいお吸いに?」
「二箱だね」
「喫煙年数はどれくらいですか?」
「もうすぐ二年になるかな」
「なるほど、ここに貧相な誕生日プレゼントがありますね?」
「わりと上等だと思うけど」
「もし喫煙してなければ、もっとマシなプレゼントを買えたんですよ?」
「ごめんねそれで我慢してね」
「もっとマシなプレゼントを──」
「ごめんねって言ってんでしょうが!」
かちゃり、と冷たい音が鳴る。
見れば、エコウくんの指がガラス戸の錠に掛かっていて。当然のごとく、錠の表示は「開」から「閉」に変わっていて。
「風邪ひいちゃダメですよワカバさん」
「オーケー分かった悪かった! 何が欲しいの言ってみな!」
敗北宣言を合図に、エコウくんは勝ち誇った表情になる。それはもう「むふふーん」って擬音がつきそうな感じで。しかしそれも一瞬のことで、すぐに真顔に戻る。
じゃあですね、と前置きして彼は続けた。
「一晩、泊めてくれませんか」
「それは何かな、むふふーんなこと目当てなのかな」
「水道電気ガス諸々を止められちゃいまして」
「金欠で?」
「単なる支払い忘れってやつです」
「なんだそういうことか」
「そういうことです」
でもまあ、と咳払いするエコウくん。
「むふふーんなことについても、やぶさかではありません」
「素直じゃないね。君らしくない」
端正な仏頂面が、みるみるうちに赤くなる。二度目の咳払いは、さっきよりもひときわ大きかった。
「……だからタバコ消して、早く部屋に戻ってきてください」
「もう一本だけ吸ってもいいかな」
「……もう一本だけですよ」
“もう一本”を許可されたのは、後にも先にもその時だけだ。
とにかく、エコウくんはタバコに関しては口うるさかった。喫煙している最中は当然として、吸いたいそぶりを見せただけでも牽制してくる。小言なんて、それこそ何度言われたか分からない。
「なんでタバコなんか吸うんですか?」
それが、エコウくんの口癖だった。性懲りもなく、飽きもせずに問いかけてくるのが常だった。でもね、訊かれたって特に理由なんてないわけだ。
喫煙者なんてジャンキーとそう変わらない。
吸わずにはいられないから、吸う。
でも、そんな回答じゃ格好が付かないから、私は毎度のようにそれっぽい理屈をこね回すことになる。
「ワカバさん、タバコ1本で寿命が5分30秒縮まるらしいですよ」
「私はさ、生命の尊さを実感するために吸ってるわけ。メメント・モリ。お手軽に死を意識できる娯楽って贅沢だと思わない?」
「思いません。早死にしちゃいますよ? 平均寿命すら越えられませんよ?」
「平均寿命なんてね、女の方が7年くらい長いんだよ? タバコで削ってちょうどいいくらいだよ」
「できればワカバさんには長生きして欲しいんですけど」
「美人薄命って言うからね、難しいね」
「タバコって老化を早めるんですよ。美しさも奪っていくんですよ?」
「でもさ、私がしわくちゃになっても、好きでいてくれるんでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「じゃあ問題ないよね」
いつもの会話は、いつものように着地する。どだい、喫煙にポリシーなんてない。銘柄だって別に何だっていい。煙の味なんてのは、多少の好みはあっても、特に気にしない。
大事なのは、ニコチンを摂取できること。
煙を吐いている実感が得られること。
ある程度吸い慣れちゃうと、吸ってないときの口寂しさが切なくて、我慢ならなくなる。禁断症状ってやつだ。
きっと、私にとって、タバコは男と同義だ。
ラベルは何でもいいから、手元になくちゃ寂しくて困る。
一人の男を一箱のタバコと考えるならば。
私はすでに、7つの「箱」を消費している。
だから、エコウくんは8箱目ということになる。
なんとなく買ったホープを吸いながら、そんなことを思った。ついでとばかりに「8番目の希望」なんてフレーズも脳裏をよぎる。彼に言ったら喜ぶだろうか、と妄想を巡らせてみても、頭の中の彼はいつだって素っ気ない反応を見せる。
──安い“希望”ですね。
ほんとだよね、と笑いつつ、言わない方が吉だろうなと思い直す。
いつか私は、エコウくんを吸い終えてしまうのだろう。空き箱は捨てなくちゃならないけれど、私が捨てる必要はない。
箱のほうが、勝手に私を捨ててくれるから。
いつも私は、相手の希望を吸い尽くして、見限られてしまうから。
私は、捨てられるのをぼんやりと待っていた。
一年が経った。私たちは交際一周年のお祝いをした。
二年が経った。私は大学を卒業して、就職した。
三年が経った。エコウくんも大学を卒業して、就職した。
四年が経った。私たちは同棲を始めた。
私は、まだ、捨てられていなかった。
***
「タバコをね、やめようと思うのよ」
「やっとですか。で、どういう風の吹き回しですか」
「いやほらお互い安月給だし、生活もわりと苦しいし、これから色々と資金も要るだろうし、節約できるものは節約しようって思ってね」
「禁煙外来とか行くんですか?」
「とりあえず根性でどうにかする」
「そうですか、じゃあ頑張りましょう」
そんなわけで、私は禁煙を始めた。タバコを吸う代わりにガムを噛んで、それでもどうしようもない時は食欲を満たすことで発散した。
おかげで激太りして、それを元に戻す手間はかかったものの──
禁煙は、一応のところ成功したのだった。
「おめでとうございます、と言っても大丈夫なんですかね」
「禁煙して一年だよ、十分でしょ」
「じゃあ改めて、おめでとうございます」
「どうもありがと」
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
そんなやり取りを交わしてから、一年後。
──私は、エコウくんに捨てられた。
***
私は何度か、ふざけてエコウくんにタバコをすすめたことがある。
付き合い初めの頃こそ、喫煙中の“寄り添い攻撃“に面食らったものの、慣れてしまえば逆に余裕も生まれてくるというもので。
「私としては、何事も経験だと思うわけよ」
「経験しなくていいこともあるでしょう」
エコウくんは、毎度おなじみの冷笑を浮かべつつ、決まってこう続けるのだ。
「まあ、死んだら吸ってみてもいいですね」
「言ったね? 棺桶の中にカートンで入れとくからね?」
「どうぞご自由に。死んだ後なら健康のことなんて考える必要もないですから」
「あんたはヘルシーライフを意識しすぎだよ」
「ワカバさんが健康に無頓着すぎるんです」
やれやれといった調子で悩ましげに息を吐きつつ、最後に彼は言う。
「癌になっちゃいますよ?」
「その時はその時で考える」
「そうなってからじゃ遅いのになぁ」
当然のことを当然のようにのたまうエコウくんは、まさに健康優良児といった感じのオーラを漂わせていた。
自他ともに認める不健康娘の私としては、彼のことがちょっぴり疎ましくて、同時にまぶしくもあった。
彼は病気とは無縁だと信じていたし、長寿記録すら塗り変えるんじゃないかと本気で思っていた。
反対に私はどうだと問われれば「四十くらいまで生きられれば御の字」と答えるくらいには、健康管理について消極的だったから。
私はきっと、エコウくんよりも先に天のお迎えが来る。自分の中では、それは予想と言うより確定事項だった。
だけど、神様というものは案外ずぼらで気分屋だったらしい。
だって、私よりも先にエコウくんが癌になるなんてさ。
どう考えても、おかしいじゃないの。
***
「僕、明日から入院することになっちゃいました」
4月1日。
夜遅くに帰ってきたエコウくんは、私と顔を合わせるなりそう言った。
会社に遅刻しちゃったんですよ、と自嘲するかのような、気軽な調子で。
「ねえ知ってる? エイプリルフールってのはね、嘘ついていいのは午前中までらしいよ」
「知ってますけど」
顔色一つ変えず、エコウくんはいつも通りの穏やかな口調で続ける。
「お医者さんいわく、癌らしいんですよ。というわけで、ワカバさんは当分一人暮らしですね。長風呂もチャンネル権も思いのままですよ」
入院、手術、そして病理検査。
一週間もしないうちに、一通りの結果が出揃って。
「どうやら他の場所にも転移してたらしくてですね」
悲壮さの欠片も感じられない声音で、告げられた。
「……なんでさぁ、隠してたわけ?」
「何がです? 告知された日から、すべて正直に伝えてると思うんですけど」
「そっちじゃなくてさ。『昔』のこと」
いかにも不機嫌そうな表情を意識しつつ、私はベッドに繋がれたエコウくんへと顔を向けた。
「癌になったの、今回が初めてじゃないんでしょ」
担当の医者から聞いたところによれば──
エコウくんは、今までに二回、癌になったことがある。
一回目は、小学六年生の時。
そして二回目は、高校一年生の時に。
「別に隠そうとしてたわけじゃないですよ。『癌になったことある?』とでも聞かれれば、正直に言うつもりでした」
──ふつう訊かないだろ、常識的に考えて。
盛大に文句をぶつけてやりたいのに、言葉は胸の奥に詰まったままで。
代わりとばかりに、塩辛いものが後から後からこみ上げてきて。
憤りなのか、悲しみなのか、あるいは両方か。
それが何に対してのものなのかさえ、自分でも分からない。
とにかく、嫌なんだ、と思った。
投げつけるべき台詞を必死に探しているうちに、エコウくんが再び口を開いた。
「……たぶん、三度目の正直ってやつです」
間を置かず、思い出したようにもう一言付け加える。
「癌に関しては“ベテラン”ですからね。嫌でも分かっちゃうんですよ」
涼しげな瞳が、こちらをじっと見つめていた。
負けじと私も見つめ返す。
お互い言葉を発することもなく、視線だけがぶつかり合う。
夕陽に満たされた病室の静けさが、耳を痛くした。
「面会終了のお時間となりましたので……」
会話の空白に、別の声が割り込んできた。背後に視線を転がすと、開いた扉のそばで、看護婦さんが申し訳なさそうに佇んでいた。
私はできるだけ深く溜息を吐き出して、こね回していた思考を放り捨てて、荷物をのろのろとまとめる。
病室を出ようとしたところで、「ワカバさん」と今更のようにエコウくんの声が飛んできた。
「僕がいなくなったら、さみしいですか」
出し抜けに問われて、言葉に詰まる。
絡まった息をほどいて、一呼吸を置いてから、言った。
「いなくなってからじゃないと、分からない」
きっと、さみしいと答えるのが普通なのだろうし、そうあるべきなのだろうとも思うけれど。
分からないものは、分からない。
さみしいと言い切れるだけの確信が、私にはない。
──ああ、だからか。
ぼんやりとした感情の輪郭が浮かび上がるに至って、ようやく分かる。
自分で、自分に納得する。
──だから、こんなにも、むなしいのか。
たとえば自分の存在が、世界から欠けたとして。
それを人からさみしがってもらえないのは、
たぶんかなしいことなのだと思う。
好きな相手にそう思われないのなら、余計に。
それを分かっていて、演技すらしてあげられない私は。
さみしさで心を満たすことができない私は。
きっと、からっぽな人間なのだとも思う。
「分からない」というのは、ある意味で酷い返答だ。
なのに、エコウくんは「なるほど」と頷いて、笑った。
予想とは反対に、どこか安堵したような雰囲気さえ漂わせながら。
「……そういえばワカバさんって、男には不足しない人生を送ってきてますよね」
脈絡のない問い。怪訝に思いつつも「そうだね」と返した。
彼氏と別れて三ヶ月もすれば、次の彼氏ができている。
中学の頃から、ずっとそうだった。
それはエコウくんもすでに知っている話だ。
確認のつもりで言ったのか、彼はいっそう深く微笑んだ。
「ところでですね。癌の治療費が高いこと、ご存じですか?」
「そうらしいね。よく聞く話ではあるけど」
「抗癌剤とかが、わりと高価なんですよね」
「入院期間もそれなりに長くなりそうだしね」
「はい。正直な話、今の貯金を使い果たすくらいには」
「私の貯金で足りる?」
「お金を出してもらうつもりはありませんし、出してもらってもたぶん足りません。それに、きっと僕は退院できないと思いますし」
だから、もういいんですよ。詰んでるんです。
言葉とは裏腹にエコウくんの表情は晴れやかで。だからこそ、どうしようもない違和感を覚えてしまう。
胸の内がまったく読めない。
でも、彼がこれから言おうとすることは、分かる。
「……サクラダさん、そろそろよろしいでしょうか?」
看護婦さんの声には、わずかながらも苛立ちの色が滲んでいた。狙いすましたように、見舞い客の退室を促す館内放送が響き渡り、遅れてクラシック曲が流れ始める。
「……言いたいことがあるなら、さっさと言っちゃいなよ」
「言おうとしてたところですよ」
「じゃあほら早く。また怒られちゃうから」
「別れましょう」
「ですよねー言うと思ったふざけんな」
私の抗議を軽やかに受け流し、エコウくんは「今までありがとうございました」とうやうやしく頭を下げた。癪に障ったから、こっちもこっちで「これからもよろしく」と返してやった。
「サクラダさん!!」
看護婦さんによる三回目の注意は、ほとんど怒鳴り声に近かった。退室と言うよりはほとんど追い出される形で、私は病院の外に出る羽目になったのだった。
***
勝手にフられた。
だから、勝手に見舞うことにした。
翌日。
病室を訪れた私を見るやいなや、エコウくんは訳が分からないとでも言いたげに眉をしかめた。
「『去る者追わず』が信条だったんじゃないんですか?」
「基本的にはそうだね」
「僕は例外ってことですか」
眉間にしわを寄せたまま、深々と息を吐くエコウくん。うつむきがちに視線を漂わせていたけれども、急に大真面目な顔になって、再びこちらを見据えた。
「僕と別れたら、心おきなくタバコが吸えますよ?」
……言うに事欠いてそれかよ。
胸の内で毒づきつつ、私はゆっくりと首を振る。
「今更、吸う気にもなれないよ」
誰のために禁煙したと思ってんの、とまで言おうとして、やめた。代わりに、用意しておいた台詞を放ってみた。
「あんた、私のことが嫌いになった?」
去る者追わず、ってのは確かに私の流儀だ。
でも、実際はちょっと違う。
交際解消にあたって、私は一つの条件を設定している。
「私は、相手に嫌われないと納得しないから」
歴代の元彼たちは、その条件を満たして去っていった。「嫌い」の一言を引き出せればそれでいい。シンプルにそう言われれば、私はすんなり引き下がる。
問題は「嫌いじゃないけど」とお茶を濁すパターンだ。でも、そんな台詞を吐く男に限って、心の底では私を嫌い尽くしていたりするもので。
単純な「嫌い」を無理に美しく彩ろうとするから、ややこしくなる。オブラートで幾重にも包んだところで本質は変わらない。それでも、見えにくくすることはできる。
だから私は、本心の膜を引き剥がそうと躍起になる。配慮のフリした自己満足を、滅茶苦茶に壊してやりたくなる。
ねぇ嫌いなの? 私のこと嫌いなの?
嫌いだったら嫌いって言ったらどうなの?
嫌いって言わないと別れないよ?
嫌いなの好きなのどっちなの?
ちゃんと言いなよ、ほら。 ほら! ほら!!
──問い詰めれば、決まって「嫌い」との答えが返ってくる。
初めは本当の本当に「嫌いじゃない」のかもしれないけれど、答えを迫るうちに嫌われることになるわけだ。
綺麗に終わらせたい、という最後の希望を打ち砕いて、終わる。
今まで、ずっと、ずっと──
そういうふうに、やってきた。
ねぇエコウくん。
あんたはさっき、自分が『例外なのか』って尋ねたけれどさ、違うんだよ。
ただ単に、条件を満たしてないだけなの。オーケー?
だから訊くよ。
──私のこと、好きか嫌いか、どっち?
「嫌いじゃないですよ。好きですよ」
「じゃあダメだね、別れらんないよ」
「そっか、じゃあ仕方ないですね」
こめかみを掻きながら、エコウくんは照れくさそうに微笑んだ。
「どうしたって、嫌いになれないですから」
***
それから、私はエコウくんを見舞い続けた。
頻繁に会っていると相手の変化に気付かないとはよく言うけれど、エコウくんに関して言えばそんなことはなかった。
彼の「三度目の正直」という見立ては正しかったようで、週を追うごとに弱っていくさまが手に取るように分かった。
頬がこけて、枕元に散らばる髪の量が増えて、眠る時間が段々と長くなっていって。最初のうちは一時帰宅も許可されていたけれど、半年もした頃には外にも出られなくなった。
「もうそろそろ、ですかね」
装着したウィッグを指先でいじりながら、エコウくんは歌うようにつぶやいた。
「お迎えがくるのが?」
ストレートに尋ねると「そっちはもう少し後ですね」と苦笑された。
「その前に余命宣告ですよ」
普通に考えれば重々しい言葉も、エコウくんにかかれば雑談の一節のようにしか感じられない。口調がふわふわと軽いから、ちょっとでも気を抜くと取り逃がしてしまいそうになる。
「そういうわけでですね、ワカバさん」
微笑みを崩すこともなく、エコウくんは言う。
「口が利けるうちに、洗いざらい懺悔しとこうと思うんです」
何をと問うことはしなかった。ただ、喋りたいように喋らせてあげたいと思った。懺悔とは、きっとそういうものだと思うから。
私は小さく頷いて、視線で話の先を促した。
ありがとうございます、と律儀に礼をするエコウくん。
しばしの静寂の後で、彼はとつとつと語り始めた。
「──告白した時、ワカバさんのことは好きじゃなかったんですよ」
***
ワカバさん。
知っての通り、僕は昔、癌になったことがあります。
最初は小6の時に。高1の時にも再発しました。
闘病生活うんぬんの話は割愛しますね。
ただでさえ楽しくない話が、余計に湿っぽくなっちゃいますから。
一言で言うなら、そりゃあ辛かったですよ。
最初、両親はこの世の終わりみたいに嘆いてましたし、再発した時なんかは落胆しきってましたね。
二回目の治療が終わった時、僕はもう色々なことに対してどうでもよくなってまして。
学校では休んだ授業の補修がびっしり組まれるし、
クラスメイトからは腫れ物扱いされるし。
何より、癌がまた再発するかもと思うと、気力が萎えて仕方ないわけです。
正直なところ、長生きはできないだろうと思いました。両親も口には出さなかったけれど、同じようなことを考えてたと思うんですよね。
──「進路は好きなようにしていい」
──「後悔のないように生きなさい」
口癖のように、そう言ってました。
でもね、病弱な高校生には明確な夢も目標もないわけです。だから、すごく悩みました。ベタな話ですけど「明日地球が滅亡するとしたら?」みたいなことをずっと考えてました。
そうして、導き出された結論が……
あ、笑わないでくださいね?
「彼女が欲しい」だったんですよ。
せめて一度だけでいいから、
女の子といちゃいちゃしてみたいって思ったんです。
できるだけ家から離れた大学を受験して、
自由に一人暮らしをして、彼女をつくる。
そんなアホな目的を達成するためだけに、勉強して。
あの大学に、なんとか滑り込んだわけです。
入学してから、いろんなサークルの新歓に行きました。
彼女を絶対に作ってやるって鼻息も荒く意気込んで。でも僕、女子と接するのが壊滅的に下手だったんです。距離感がぜんぜん掴めなくて、うまく話せなくて。
緊張もありましたけど、それ以上に怖かったんです。
仮に、念願かなって彼女ができたとして。
付き合ってる最中に僕が癌になって、死んだとしたら?
うん、少なくとも良い気分にはなりませんよね。人によっては、軽くトラウマになるかも知れませんし。
そう考えると、申し訳なくて、余計に萎縮しちゃって。
だから、彼女候補を見定めるにあたって、条件を設定したんですよ。
僕のことなんか気にもかけない恋人。
より具体的に言うなら、僕が死んでも悲しまない女性。
僕のことなんかさっさと忘れて、すぐに次の男を見つけるような。
そんな、薄情で強い人を彼女にしたかったんです。
……でも、それって矛盾してるんですよね。
僕のことを何とも思わない女性が、僕を彼氏にしようとは普通思わないでしょう?
よくよく考えたら八方塞がりなわけです。
でもいたんですよ、そんな女性が。
そうです、ワカバさんです。
ワカバさん、サークルの男どもからなんて呼ばれてたか知ってます?
“サクラダビッチ”ですよ。
サクラダファミリア的なノリで、聖なるビッチ。
告ったら絶対に断らない聖女、って評判だったんです。もっとも、元彼さんたちからの評判はよろしくなかったみたいですが。
先輩方からワカバさんの話を聞いたとき、
申し訳ないですが爆笑しちゃいました。
同時に、すごく怖いとも思いました。
恋愛経験ゼロの男子にとって、ビッチなんてのは天敵にも等しいわけですよ。
恋心よりも劣等感と恐怖心のほうが遙かに大きくて、告白するのにも勇気が要りました。
だから──最初は怖かったんです。
***
「でも、今は『好き』なんだね?」
土気色の横顔を眺めながら、私は質問を放る。
「そうですねー、好きになっちゃいました」
病室の薄いカーテン越しに、夕焼けがエコウくんを紅く染めていく。
「とはいえ、要するに最初の告白はウソだったわけだ」
「だから今、懺悔してるんじゃないですか」
悪びれた様子もなく、エコウくんはにっこりと笑う。つられて、私も思わず笑った。
「タバコ嫌いってのも、もしかしてウソ?」
「そっちはホントです」
間髪入れずに否定されたけれど、それを聞いて私は少しだけ安心する。エコウくんのために必死に禁煙したってのに「実はタバコ好きなんですよ」なんて言われるのはあんまりだ。
「さすがに演技であそこまではしませんよ」
「度が過ぎてたって自覚はあるのね」
「タバコは癌の種ですからね、しょうがないんです」
ばつの悪そうな表情を浮かべたエコウくんは、
「ワカバさんには長生きして欲しかったので」
と付け加えて、自嘲ぎみに鼻を鳴らした。
「あんたはホントにお節介だなぁ」
「自分でもそう思います」
のらりくらりとした返答が、病室の静けさにやけに響く。声の余韻が消え去ろうとする寸前、「もうひとつだけ」と再び声が飛んだ。
「お節介だとは分かってるんですけど。僕がいなくなっても、悲しまないでくださいね──号泣されるのは勘弁ですよ?」
念を押すように言った後で、
「さみしがってもいいけど、悲しまないでください」
と駄目押しされた。
「今はもうタバコのことなんてどうだっていいですけど、それが心配なんですよね」
「大丈夫だよ」
私はそっと笑う。
「きっと、大丈夫」
もう一度言って、いっそう深く笑ってみせる。
実際のところ、自分が彼の目にどう映っていたかは知る由もない。それでも彼は笑い返してくれたから、上手くいったのだろうと思う。
そう勝手に信じている。
それから、きっかり二ヶ月後。
私は、エコウくんに捨てられた。
彼はあの世に旅立って。
私はこの世に残っていた。
***
彼の葬儀は行われなかった。
世に言うところの「直葬」。
セレモニーを省いて、そのまま火葬するというものだった。
当日になって初めて、エコウくんの両親が他界していたことを知った。
どうりで、足しげく病室に通っていたのに姿を見なかったわけだ。
火葬場に集まったのは、母方の親戚のみ。
人数も両手で数えられるくらいのものだった。
彼らからすれば、赤の他人である私の存在はひどく目立ったらしい。「交際しておりました」と正直に伝えると、全員が揃って安堵の表情を浮かべた。
──あの子も幸せだったと思います。
──あなたのような優しい女性に傍にいてもらえて。
──心中お察ししますが、彼の分まで生きてください。
温かな言葉を浴びせられて、私は少し困ってしまう。悲しいでしょう、と言わんばかりの配慮に惑ってしまう。当の故人からは「悲しまないで」と釘を刺されているのだから。
火葬が始まってしばらくしてから、こっそりと外に出た。近くのコンビニに寄ってタバコを買い、喫煙所へと足を運んだ。久々になんとなく買ってみたものの、吸う気にはなれなかった。
夏まっ盛りの炎天下で、ふと空を見上げる。
どこまでも青い空には、一筋の煙が立ち上っていた。
一瞬、火事かと思って、ぎょっとする。
でも、煙の元を目で追ってみれば、なんということはなかった。煙は、火葬場の煙突から伸びているのだった。
今の火葬場では煙突を設けないのが一般的らしいけれど、このあたりの田舎ではまだまだ現役らしい。
──死んだら、タバコ吸ってみてもいいですね。
もくもくと煙を吐き出す煙突を眺めていると、いつかの懐かしい台詞がふっと脳裏をよぎった。なるほど、喫煙しているように見えなくもない。でも、煙の流れ具合からして、どう見てもフカしているようにしか見えない。
──どうです、ワカバさん?
あたかも吸ったようなフリして悦に浸るエコウくん。そんな光景が目に浮かんで、思わず苦笑した。
タバコを左手に持ったまま、火を点ける。
先っぽにきちんと火が通ったのを確認して、スタンド灰皿の網に乗せた。
「お線香がわりに、あげるよ」
そっと、祈るようにつぶやいて。
空に立ち昇る二つの煙を、見送った。
***
月日は矢のように過ぎていく。
どこまでも、あてどなく流れていく。
普通に仕事をこなして、平凡な日々を消化して。気付けば、私は部下を持つ立場になっていた。
そんな、ある日のことだった。
「──サクラダさん、好きです。僕と付き合ってください」
残業終わりの夜更け、ビル屋上の喫煙所で。
告白された。会社の後輩に。
いやまぁ、ある程度予想してはいた。
担当として付きっきりで面倒を見てきたし、そういう情も生まれるのかなと思わないでもなかった。
でも、これは不意打ちだ。
気分転換に外の空気を吸いに出たところで、いきなり告白されるなんて思いもしなかった。いやはや、若いね。
「ていうか、あんた定時で上がったんじゃなかったの」
「社内に忘れ物しちゃって、途中で引き返してきたんですよ」
「本当に?」
「すみません。実は、お仕事終わるの待ってました」
あっさりと開き直られて、もはや怒る気力も失せてしまう。疎ましげに軽く睨んでやると、彼はびくりと肩を震わせた。それでも、こちらを見つめる瞳には、強い光が宿ったままだ。
──そういえば自分、彼氏いないんだったな。
直立不動で待機する彼を眺めながら、ふと思う。
エコウくんが亡くなってから三年。
その間、私はずっと独りだったわけで。
単純な事実に、今更のように気付く。自分で自分に驚いてしまう。
いやはや、私もずいぶん丸くなったもんだね。
目の前の男を、改めて見据える。
入社二年目の彼。まだ「男の子」と言っても差し支えのない雰囲気。
勤勉な仕事ぶりに定評がある、とは他の上司の弁だ。担当の私としても、その点は知っている。一人の異性としてみても、率直に言うと「いいな」と思う。
実際、今の私はちょっぴり嬉しいと感じてしまっているわけで。
──僕のことなんかさっさと忘れて、次の男を見つけてください。
頭の奥底から声が響く。
そうだねその通りだね、と胸の内で答えた。
ただ、理解してはいても、心はその通りに動いてくれない。
三年前、エコウくんに捨てられた。
そんなふうに、思っていた。
思いこもうとしていた。
でも、それはきっと私の勘違いだ。
私が、エコウくんを捨てきれずにいるだけで。
もう、いい加減に捨ててもいいのだと思う。
希望を吸い尽くしてなお空き箱にすがる私は、私らしくないのだとも思う。エコウくんは、絶対に喜ばないだろうと、確信できる。
「──ねえ、タバコ持ってる?」
「あ、はい。……サクラダさんって吸う人でしたっけ?」
「元喫煙者なんだよね、実は。よかったら一本くれる?」
いきなりの要求にも嫌そうな顔ひとつせず、彼は背広からタバコ箱を取り出した。
「ロングピースか。意外に渋いね」
「そうですね、よく言われます」
箱から一本を取り出し、借りたライターで火を点ける。むせ返るような甘い香りが、すぐに鼻腔を満たした。
一口目。久々とあって、頭がくらっとする。
二口目。焼けつくような、懐かしい感触が喉に走る。
三口目になって、ようやく慣れてきた。
──僕のいるところでは、吸わないでください。
ああ、そんな約束を最初にしたね。
──サクラダさん、タバコ臭いです。
いつもうるさかったよね、あんた。
──なんでタバコなんか吸うんですか。
毎度毎度、しょうもない会話をしたもんだね。
──僕と別れたら、心おきなくタバコ吸えますよ?
だからこうして、いま吸ってるわけで……
「……サクラダさん?」
怪訝そうな声がして、私は慌てて鼻をすすった。なんでもないから、と言ったはずなのに、声にならなかった。
──悲しまないでくださいね。
悲しくない。悲しくないから。
ただ、さみしいだけだから。
やっと、そう思えるようになったから。
だから、もう、捨てることができる。
吸い殻を灰皿に落とすと、じゅっと湿った音が鳴った。目元の雫をまばたきで振り払って、彼に向き直る。それから、小さく息を吸って、告げた。
「……私もさ、君のことが好きだよ」
「……ありがとうございます」
堅かった彼の顔に、一瞬にして安堵の笑みが広がった。大きく息を吸って、彼もまたタバコをくわえる。火を点けると同時──
「でもね」
と私は補足を加えた。
「きっと、君が私のことを想ってくれてるほど、私は君のことを想ってない」
けほっ、とむせた声が盛大に響いた。
さっきまでの嬉しそうな表情はどこへやら、彼は驚いたように私を見つめる。動揺しているのが、傍目にもはっきりと分かった。
「……その溝を、埋めることはできませんか?」
「君と私とでは、それなりに距離があると思うのね」
タバコ、もう一本くれるかな?
そう尋ねると、彼はもう一本、ライターとともに気前よく差し出してくれた。
指を添えてくわえつつ──彼が吸うタイミングを見計らって。
「ねえ、こっち向いて」
彼がくわえているピースに、自分のそれを押し当てた。息を吸うと同時に、ピースがちりちりと音を立てて点火される。
「……距離としては、これくらいかな」
タバコ越しの接吻。その距離およそ二本分。
唇を奪わせるには、まだ早い。
だから、今はこれが精一杯。
ぽかんとしている彼に、私は言う。
「だから、その差を埋めたいと思うわけよ。できる?」
「……それは、禁煙しろってことでしょうか」
「さすが察しがいい、大正解」
私は笑って、吸いさしのピースを灰皿に放った。
「ちなみに私は、また禁煙生活に戻るつもり。だから、後は君しだい」
「なるほど」
「タバコ一本分の距離、どう思う?」
「近くて、遠いです」
思わず吹き出してしまった。
その顔が、あまりにも残念そうで、可愛かったから。自分だって元喫煙者なのだ、気持ちはよく分かる。それでも、あえて問わなければならない。
「さて、どうする? 煙をとるか、私をとるか」
返答は、早かった。
「サクラダさんをとらせて頂きます」
手渡されたピースの箱とライターを、屑かごに放った。
きっと、これが最後の箱になる。
願わくば、彼にとってもそうであればいい。
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
うたかたの希望ではなく、もっと確実なものとして。
この一瞬を、永いものにしていけたらいいと、そう思った。
<了>
Illustration:斑(超水道)