夜間限定彼女が願い事をした夜の話
屋上に続くドアの鍵を回すと、ほのかに温かい風が僕らの頬を撫でた。明日からは9月だというのに、まだまだ秋の気配とは程遠い。彼女──ハツカが「ぬるいね」と笑い、僕も「ほんとにね」と頷く。
大学4年生の、夏。
言い換えれば、僕らにとっては学生最後の夏休み。とはいえ、なにか特別なことが起きるわけでもない。もっとも、別に「起きてほしい」とも思っちゃいないのだけれど。
今日も今日とて、いつもどおりだった。
ハツカが昼頃に僕の部屋にやってきて、誕生日プレゼントとして最近買ってくれた新作RPGを一緒にちまちまと進めて──そのうち、僕らは休憩と称してどちらからともなく寝落ちした。そうして目覚めたのが、ついさっきのこと。眠気覚ましの一服を味わうべく、いつものように二人して屋上へと繰り出したというわけだった。
宙に漂う二筋の煙をぼんやりと目で追っていると、ふいに隣からハツカの声が上がった。
「ずっと──、」
短く早口に放たれた、言葉のかけら。そこはかとない驚きが滲んだそれは、どこか叫びにも似ていて、僕は反射的にハツカのほうへ首を巡らせていた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、空を見上げるハツカの後ろ頭。
そして、流れ星だった。
薄く墨を垂らしたような夜空に、一条の光が長く尾を引き、やがて緩やかに消えていったのだ。
「……トウゴくん、今の見た?」
こちらに首だけを向け、ハツカがつぶやくように問う。
「……めっちゃ見えた」
起き抜けで重みの抜けない瞼をこすりつつ、僕は頷く。
やけに大きな流れ星だった。時間にすれば、5秒ほどだったか。いや、実際はもっと早くにハツカが反応していたわけだから、もしかしたら10秒くらいは見えていたのかもしれない。
僕が住むこのアパートは、都内の物件にしては珍しく、空がよく見える。アパート自体は3階建てだけれど、住宅街に囲まれた丘のてっぺんに位置していて、おまけに屋上も立ち入りOKとくる。階数が二桁はありそうな公営住宅やマンションを眼下に差し置いて空を独占できるこのスポットを、僕は地味に気に入っていた。
流れ星がよく見えそうだ、なんておぼろげに期待したことはあったけれど、まさか本当に実現するとはね。覚えず、しみじみとした吐息が漏れる。今更ながらに心が浮き立つのが、自分でも分かった。
「おれ、流れ星って初めて見たかも」
「そう、なんだね」
「ハツカは?」
「前にも一回だけ、見たことあって……」
へぇ、と素直に驚いた。流れ星とは無縁の人生を送ってきた身としては、結構な頻度に思える。2本目のタバコに火をつけた後で、俺は再び口を開いた。
「さっきさ、何をお願いしようとしたの?」
ずっと、と彼女は言った。そこに僕は、続くはずだった言葉の気配をありありと感じていた。途中で気恥ずかしくなったのか、あるいは焦りで舌が回らなかったのか。
だから、訊いてみた。それはひとえにシンプルな好奇心からだった。
しかし予想に反して、ハツカはじっと押し黙ったままだった。うつむきがちに、鉄柵に寄り掛かっている彼女──その白い横顔が、夜闇と黒髪のあわいに見え隠れする。ただ、表情はとんと窺い知れない。そうこうしているうちに、僕らは2本目のタバコをすっかり吸い終えてしまっていた。
デリカシーのない問いだっただろうか、と後悔しかけた矢先、
「今日だったんだよね」
と、ハツカの声がした。
「流れ星を見たの、ちょうど8年前だったの」
3本目のタバコを唇にくわえて、彼女はとつとつと話し始めた。
「ずっと夜ならいいのに」と想った夜のこと。
その想いが、なぜだか叶ってしまってからのことを。
***
──昔ね、学校に行きたくない時期があったの。
理由は単純でね、学校で嫌がらせを受けてたから。もともと、別の子がクラスぐるみでいじめられてて、その輪に参加しなかったんだよね。でも、今にして思えばそれはただの口実で、そもそも皆から好かれてなかったんじゃないかな。ともあれ、一周目のいじめが終了した瞬間、わたしは次なる標的に定められてしまったってわけ。
それが、中学1年生の夏頃だったかな。それまで友達と思いこんでいたクラスメイトも、さーっと離れていっちゃったの、よく憶えてる。その頃にあった体育祭のスローガンが「団結」だったけれど、確かにそういう意味での結束力はあったよね。
親には言わなかった。言えなかった。心配をかけたくなかったのね。
教科書や上履きを隠されるとか、そういうやつはまだいいの。問題は、ちゃんと処理しないと家族にバレそうなやつ。通学カバンに修正液を塗りたくられたりとか、体操服に水性ペンで落書きされたりとか──そういうのは、帰宅する前に学校でどうにか始末しなくちゃいけなくて。
そのうち飽きるに違いない、って耐えてたんだけれどね、間違いだった。学年が上がったところで改善の兆しは見られなかったし、むしろ余計にひどくなった気さえした。
家では平気を装わなくちゃいけなかったけど、それも限界が近かった。
部活もね──そうそう、もともとテニス部だったんだけど──とっくに辞めてたのに、親には部活や勉強で遅くなるってウソついてさ。でも部活の話題なんて出しようもないし、勉強してるって言うくせに成績はちっとも上がらないし、取り繕うのも中々きつくなってきて。
あの流れ星を見たのは、ちょうどそんな時のことだったんだ。
***
中学2年生の頃──忘れもしない、8月31日の夜。
そのとき、わたしは自室のベッドで横になって、ぼんやりと窓の向こうを眺めていた。
ベッドから動く気になれなくて、でも、部屋を視界に入れたくなかった。
夏休みの間に模様替えしようって決めたのに、結局できなかった自室。
机に広げたままの、まだ終わってない宿題。
準備途中で床に放り出した、通学カバン。
唯一、四角に切り取られた夜空を見ていれば、ちょっとは気分がマシになる気がしたんだ。
どれだけの時間そうしていたのか、自分でも分からない。だんだんと眠気が増してきて、そのまま目を閉じようと思ったところで「それ」が見えた。
窓の向こうに、大きな光の筋がひとつ、ゆっくりと流れていったんだ。
今思い出しても笑っちゃうんだけど「何か願わなくちゃ」って思ったの。願い事をさ、流れ星が消えるまでに三回唱えれば叶う……ってやつ。
それをね、実践してみたかったんだ。
当時、何かの本かテレビで見て、印象に残ってるんだけど……。
「流れ星」の言い伝え、そのカラクリっていうか。
あれは、流れ星が消えるまでのとても短い時間に、願いを3回言えるくらいにはいつも意識しておきなさい、ってことらしいんだよね。それができるくらい強い意志を持っている人なら、そりゃあ願いは叶うよね……っていう。
そんな話をふと思い出して、ちょっと真面目に考えてみようと思ったの。「何をお願いしたら楽になるだろう」ってね。
最初は月並みだけど、ぼんやりと──「世界が滅べばいいのに」と思った。
でも、それってホントかな? って我ながら疑問に思った。
死ぬにしても自分ひとりで充分だった。子煩悩で優しい両親を巻き込みたいわけじゃない──ていうか、そもそも別に死にたくなんかない。クラスの連中のために死ぬなんて、そんなバカげたことはしたくなかった。
本音としては「学校を適当にやり過ごしたい」だったんだよね。
目をつぶったら、朝と昼をスキップして、気づいたら夜になってて……そういうのが理想なんじゃないかなって。じゃあ、それを一言にまとめたら? ってことで、「お願い」の方針がやっと固まったんだ。
そこで偶然、流れ星がまた見えたんだよ。
──だから願ったんだ。「夜だけ起こして」って。
ずいぶんと長い間、その流れ星は窓の向こうに浮かんでいた。消えるまでに5秒くらいはかかったと思う。まるで、こっちが「お願い」を3回言い終えるのを待ってくれたみたいに。
すぐにTwitterで検索してみたんだけど、どこにもそれっぽい投稿はなかった。それはそれで不思議だったんだけど、あんまり気にしてなかった。気休めとはいえ、言い伝えどおりに願い事を3回言えた達成感のほうが大きくてね。
本当に久しぶりに、清々しい気持ちで──わたしは今度こそ目を閉じたんだ。
***
翌日、お母さんの声で目が覚めた。
いつもみたいに、階段の下から「ご飯できたから降りてきなさい」って。
慌てて制服に着替えて、リビングに行ったら──
もうお父さんがいて、のんびりテレビを見ててさ。
そして、テーブルの上には、ぐつぐつと煮えたすき焼きがあったんだ。
なんの冗談かなと思ったよね。始業式の景気づけにしたって、朝からこれはキツすぎるもの。さすがに抗議しようとしたところで、お母さんが不思議そうに言ったんだ。
「“また”学校に行くつもりなの?」って。
そこでわたしは、ようやく違和感を覚えた。よくよくお父さんの手元を見たら、朝食のお供の牛乳カップじゃなくて、ビールグラスが置かれていたの。次いでテレビに目を移したら、いつものNHKニュースじゃなくて、音楽番組が流れてて。
朝の7時だと思ってたら、実は夜の7時だったんだよ。
お母さんいわく、わたしは今朝きちんと登校して、お昼過ぎには普通に帰ってきたらしい。つまり、わたしは始業式に出たってことなんだ。でも、自分にそんな記憶は全然なかった。
その日を境に、わたしは夜にしか起きられなくなったんだ。
半信半疑のまま、1週間、1ヶ月と様子を見たよ。
結果から言えば「日中の自分」は上手いことやっていた。
ノートにはその日の板書と思しき内容がつらつらと書かれていたし、出された宿題にしてもきちんと済まされている。それもどうやら、学校にいる間に全部やったらしい。「嫌がらせ」の後処理も含めて、ね。
願いは叶ってしまったんだ。それも想像以上の形で。
「日中の自分」は定期試験もよしなにこなしてくれた。
学年順位で言えば真ん中あたりが定位置だったのに、いきなり5位以内に入ったの。しかも、その後の期末試験では1位を取るまでになったんだよ。
それからというもの、わたしは中学生活のすべてを「日中の自分」に丸投げした。
3年生になってもわたしは学年トップの座を維持し続けて、挙げ句の果てには進路調査票も勝手に──しかも志望したことすらない難関校が記されていた。結局、わたしはそのまま高校受験すらも「日中の自分」に任せたんだ。
──結果は、めでたく合格だった。
***
受験結果について、両親はもちろん親戚のみんなも大喜びしてくれた。わたしも、新しい環境で心機一転がんばろうと思ったの。
でも、期待よりも不安がはるかに勝った。
だって──その1年半、わたしの記憶は夜だけしかないんだもの。ふだんの授業はもちろん、受験勉強でがんばって得た知識は「日中の自分」のもので、わたしにはまったく蓄えられていなかった。要するに、わたしの学習レベルは中学2年生の夏で止まっていたってわけ。
「途中」だったからまだ良かったけれど……これからの高校生活もずっとこのままだとしたら? そんでもって、今の生活のまま、ある日突然に自分が「ひとつ」に戻ったとしたら?
──そこでようやく、わたしはゾッとした。
そこからはもう、ほんとうに大変だった。卒業するまでの数ヶ月間、わたしは今更のように猛勉強を始めたの。もちろん、完璧には間に合わなかったけれど……だいたい8割くらい。
「日中の自分」に追い付かなくちゃ、そう決意したおかげもあったのかな。高校生になってから、日中のわたしがメモを残してくれるようになったんだ。
……えっ、「読むのが大変じゃなかったか」って? ううん、全然。箇条書きで3行くらいかな、本当に「メモ」なんだよね。最低限必要なことだけ、分かりやすく書いてあったんだ。我ながらよくできた自分だよね。
それをもとに、目覚めたらまずは辻褄合わせをするの。
一番大変だったのは、試験期間のあとかな。
わたしにとっては、試験期間が終わった後が本番なんだよね。土日をほとんど使って、自分の部屋で学校の試験スケジュールどおりに試験問題を「解き直す」ってわけ。それから自己採点して、日中の自分がとった点数と同じくらいはとれるように復習して。
点数はだいたい同じくらいだったけれど、結局「日中の自分」に勝てたことなんて、数えるくらいしかなかったな──
***
ハツカの話をひととおり聴き終えたところで、僕は口を開いた。
「定期試験、基本的に高得点だったもんな」
おのずと、高校時代のハツカが思い出された。あの県下有数の進学校においても、指折りの秀才として評判だった彼女。対外模試でも成績優秀者の冊子に名前が載るくらいで──ということは、模試でも同じように「解き直し」ていたということか?
「そうだよ、だからめちゃくちゃ大変だった」
苦笑するハツカに、ぼくは肩をすくめてみせる。
試験が終わって大体1週間くらいは「復習」と称してデートはお預けになるのが常だった。本当に真面目だなと思っていたけれど、あれも単純に「自宅受験」をしていたということか。
それはそれとして、気になることは他にもある。
僕がハツカに告白した、あの日のことだ。
高校1年時の放課後、二人きりの教室で。
そう、時間帯は夕暮れ──「日中のハツカ」の守備範囲である。
「うん……正直に言うと、憶えてないの」
申し訳なさそうな声音で、彼女はつづけた。
「メモを見てとても驚いたけど、不安はなかった。もうひとりのわたしはいつだって正しい選択をしていて、きっとこれも『正解』なんだって──そして実際、正しかった」
ハツカの笑みが、こちらに向けられる。儚げで、そのくせ自信に溢れた眼差し。それに乗じて、僕はここぞとばかりに質問を重ねた。
「──普段のデートも?」
「何をしたかは知ってるけれど、覚えてはいない。特に高校の頃はね」
「大学に入って、タバコを吸い始めた時は?」
「気が付いたら、バッグの中にタバコが入ってた。トウゴくんとは違う銘柄で、おまけに通販で買ったっぽい女物のシガレットケースまであってさ」
「いきなりハツカが吸い始めたから、びっくりしたよ」
「だよね。わたしもさ、このご時世になんでまた……って感じだったけど、今はもう吸わないこと自体が考えられないや」
ひとしきりおかしそうに笑って、ハツカはタバコの火を携帯灰皿で揉み消した。それから、再びシガレットケースの中に手を伸ばしたが──しかし、その指先は空を切った。ちょうど、先ほど吸っていたものが最後の一本だったらしい。
小さく溜息をついて、ハツカはどこか清々しげな面持ちで天を仰いだ。
「そろそろ“ひとり”に戻さなくちゃダメだなって。やっと決心がついたの。もう大丈夫だって、そう思えるの」
その声音は静謐で、それでいて力強く。
「だから、次こそは願ってみようと思うの。“ずっと”……」
「──“起こさないでくれ”って?」
しばしの静寂があって──
ハツカは、ばつが悪そうにはにかんだ。
「……どうして、バレちゃうかなぁ」
「付き合ってもう6年だからね」
「そのうちの半分……いや、ほとんどは『もうひとり』なんだよ?」
「大学になってからは、ほとんど夜に会ってたじゃん。だから半分で合ってるよ」
喉に力を込めて、僕は一気につづけた。
「それでも、ずっと、6年間も違和感を覚えない程度には一緒だった」
日中と夜で、ハツカの振る舞いに目立って大きな乖離はなかった。少なくとも、僕には分からなかった。それは「もうひとり」が巧くやっていたおかげなのか、「今」のハツカの努力の賜物か。きっと、両方なのだろう。
「ハツカは『日中』に追い付く努力を欠かさなかった。あまつさえ追い越したことだってある。充分じゃないか。流れ星と同じだよ。それだけ強く思い続けてきたんだ、これからもきっとハツカは“正しい”選択を取れるに違いないさ」
そう確信できる程度には、僕はハツカのことを知っているつもりだ。その一方で、無理強いしてはいけないとも思う。ひとつに戻るということは──おそらく「日中のハツカ」が背負っていた苦い記憶も一緒に降りかかってくるということなのだ。
「……誰だって、忘れたいことはあるよ。思い出したくないことだってあるよ。それを取り戻すことが、必ずしも幸せなことだとは思わないけれど」
僕にだってある。途方もなく大きな塊を抱えている。けれども、ハツカを前にしてそれを引き合いに出すのは、さすがに蛇足というものだろう。
「どちらにせよ……ハツカが決めたことを、おれは支持するよ」
「……ありがとう」
小さく、ハツカはつぶやいた。
「わたし、ちゃんとお願いするよ。“ずっと起こして”って。わたしの人生だから──今更だけど、取り戻したいの。苦くて辛くて、きっと酸っぱいだろうけれど、必要だと思うから」
その表情に、迷いは一切感じられなかった。
「──これから先のわたしが、正しくわたしであるために」
僕は頷く。
彼女が下した決定だ。
今の自分にできるのは、それを尊重することだけだった。
……あえて言うなら、一つだけ。
「言い回しなんだけど、“元に戻して”はどうかな。“ずっと起こして”は不眠症になりそうだし。言わんとすることは分かるんだけど」
「あっ確かに……!」
ハツカはさも可笑しそうに吹き出して、すぐさま「そうするね」と神妙な顔で頷いた。
「トウゴくん。後押ししてくれて、ありがとう」
「たいしたことは、ないよ」
「たいしたことあるよ。……ねえ、もうちょっとだけ粘ってみてもいい? なんだか、今日はまた見えそうな気がするの」
「どうぞどうぞ、付き合うよ」
再び空へと視線を向けたハツカを横目に、僕はスマホをポケットから取り出す。Twitterの検索ボックスに「流れ星」と打ち込むかたわら、こう思わずにはいられなかった。
──僕も流れ星に願うべきだったのかもしれない、と。
今夜、彼女が初めに願おうとしたように。
“ずっと起こさないで”と。
***
僕は、中学生の頃からハツカのことを知っている。
もともと同じ中学に通っていたからだ。
とはいえ、学年ひとつに10クラスを抱えるようなマンモス校だったこともあり、同学年であっても顔と名前が一致しないなんてことはザラだった。僕にとっては、ハツカもまた例外ではなく──3年に進級して同じクラスになったことで、ようやく存在を認識できたくらいだ。
進級当初、クラス内の顔見知りは半分程度。そのうちの一人である女子が僕の真後ろの席にいて、よく頼み事をされた。彼女はいわゆるリーダー格の人間だった。「ごめん、これ捨てといて」──そんなセリフとともに、様々なモノを手渡されたものだ。
鉛筆やボールペンといった文房具。
髪留めと思しきピンやゴムのアクセサリー。
表紙が剥がれたノートの残骸。
いずれも決まって、壊れていたり、あるいは見た目にも汚れていたりした。週に1回くらいの頻度で頼まれては「自分で捨てればいいのに」だの「モノは大事にしろよ」と苦笑しつつ、僕はそれらを教室内のゴミ箱にバスケットボールよろしく投げ入れていた。
そんなある日、その女子から例のごとくゴミ捨てを頼まれた。それは、パステルピンクの布ペンケースだった。淡いカラーリングにはおよそ似つかわしくない、インクらしき黒染みと荒い破れが点在していたのをよく憶えている。
慣れというものは恐ろしい。何かがおかしい、と思うよりも先に、手はペンケースをゴミ箱に放っていた。ただ、一瞬の迷いが災いしたのか、いつものようにはゴミ箱に入らず──縁に当たって、中身が床にバラけてしまった。
女子の「ハズしちゃったね」と笑う声を背に受けつつ、渋々ながらゴミ箱へと向かう。散らばった中身を拾い集めようとして──僕は、その場に固まった。
数本の鉛筆、そして消しゴム。それらの表面には、揃って小さなネームシールが貼られている。
いわく──「アイカワ ハツカ」。
「捨てといて」と頼んできた女子の名前ではない。
僕は、その名前を知っている。
顔を思い浮かべる必要すらなかった。
ちょうど、教室前方にあるゴミ箱と向かい合う位置に、アイカワハツカの席があったからだ。席についている彼女、その視線はじっと僕に注がれていた。怒るでもなく、悲しむでもない──ただただ諦めきったような、虚ろな瞳だった。
この期に及んで、僕はようやく悟る。
アイカワハツカが置かれている状況を。
そして自分が、いじめの片棒を無自覚に担がされていたことを。
身体は自然と動いた。
気付かなかったフリをして──
僕はそのまま、拾い集めた文房具をゴミ箱に突っ込んだのだ。
そんな自分を、反吐が出そうなほどに呪った。
その一件を機に、僕は後ろ席の女子からの「廃棄依頼」を断るようになった。それで起きた変化なんて、その女子の依頼先が別のヤツに変わっただけで、アイカワハツカは虐げられたままだった。
結局のところ、僕は彼女の置かれた状況を何も変えられなかった。あまりにも時間が経ちすぎて──僕が変えようとするよりも先に、状況のほうが変わった。
高校受験だ。
その中学で、アイカワハツカと同じ高校に進学したのは僕ひとりだった。自然と、僕は彼女のことを気にかけるようになった。万が一にも彼女を脅かす輩がいるならば、今度こそは身を挺して守ろうと決めていた。
でも、僕の心配は杞憂に終わった。成績優秀な彼女はほどなくして皆から一目置かれ、あっさりと受け入れられた。これ以上は関わる必要もないと分かっていても、自然と目は彼女を追っていた。
ここにきて、僕は自分の本心を認めざるを得なかった。そうして、悩んだ末に気持ちを伝えて──結果として、今がある。
赦されたものだと思っていた。
だからこそ、傍に居ることを認められたのだと信じていた。
けれども、実際は違っていた。
もうひとりのハツカが“知らせなかった”。
だから、ハツカは知らずにいられた。
ただ、それだけのことだったのだ。
***
スマホの画面をオフにして、僕は浅く息を吐いた。
──「流れ星」「流星」「彗星」。
どの検索ワードにおいても、直近でTwitterにそれらしき投稿は一つたりとて見つからなかった。あの大きな流れ星を目にしたのは、どうやら僕とハツカの二人だけということらしい。ちょうど、8年前の8月31日のように。
スマホをポケットに戻して、空を目にした瞬間──
二度目の、大きな流れ星がゆっくりと空を駆けた。
ハツカの唇が緩やかに動き、
僕は口を固く結んだ。
胸の内で、ただ、祈る。
これからのハツカが下すであろう、選択の正しさを。
そして、願わくば──
その正しさの中に、僕が含まれていますようにと。
<了>
`( ´8`)´<頂いたサポートはラムネ菓子となり僕の脳に100%還元されます。なお、押してくださった♡はモチベとなり僕の心に1000%濃縮還元されます。