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【怪しい談】あついねえ

 ちょうど今頃の、暑い盛りでしたね。
 その日、僕は林へ音を録りに行ったんです。

 僕たちは普段、ビジュアルノベルと呼ばれる作品を制作しています。ビジュアルノベルとは、簡単にいえば「電子媒体の特長を活かした小説」とでもいいましょうか。文章を主体としつつ、絵や楽曲、画面効果といった演出によって彩られた物語作品をそう呼称します。

 僕たちの作品の強みとしては、ビジュアル表現の豊かさもがありますが、音にも結構こだわりを持っておりまして。環境音を実際に録りに行ったり、効果音を自作したりですね。

 林へ出向いたのも、作品に必要な環境音を録るためでした。家からはそこそこ離れていて、たどり着くのが少し大変だったんですけどね。

 手頃なベンチがあったので、そこに腰掛けてから録音を始めたんです。バイノーラルマイクを掲げて、スイッチを押して。たぶん、そこから10秒もしなかったんじゃないかな。

「あついねえ!」

 ふいに、背後から声がかかったんです。思わず振り向いたら、すぐそばにお爺さんが立ってまして。80歳くらいはいってそうな風貌でしたけど、背筋はしゃきっとしてましたね。おそらくは地元の方で、お散歩中に通りがかったってところでしょうか。

「本当に暑いですねー」って僕も会釈してね。

 会話といえば、ほぼそれだけでした。
 いや、ちょっと違うな。
 正確には、お爺さんの会話パターンがそれだけしかなかったんです。

「あついねえ!」「そうですね」
「あついねえ!」「ええ、ほんとに」
「あついねえ!」「はい……」

 10秒おきくらいに「あついねえ」って言うんですよ、そのお爺さん。
「お散歩ですか?」って訊いても「あついねえ!」。
「この辺の方ですか?」って尋ねても「あついねえ!」。

 僕は、適当にやりすごそうとしました。スマホをせわしなく操作してみたり、持参したリュックの中を整理するフリをしてみたりね。忙しそうにしていれば、そのうちどこかに行くかなって。生返事をしてはいましたが、途中からそれも面倒くさくなってしまって。

 あとはもう、林に「あついねえ」と声が響くばかりで。

 さすがにヤバいな、と思いました。でも、そこまで歩いてきた疲れもあって、すぐには動く気になれなかったんです。

 もう一回、「あついねえ」って言われたら、立ち去るか……。

「あついねえ」

 次の声は、耳の真横から聞こえました。

 見れば、目と鼻の先で、おじいさんの横倒しになった顔があって。
 反射的にのけぞった僕を見て、お爺さんは真顔で続けたんですよ。

「あついとねえ くさるんだ」

 さすがにね、逃げました。全力で。
「失礼します!」って叫んでね。
 我ながら礼儀正しかったな……いや、むしろ怖すぎたからか。

 林を駆け抜けて、手に掴んだマイクを見たら、まだスイッチが入ってました。切ったと思ったんですけどね、できてなかったみたいなんです。その日はもう、そのまままっすぐ帰宅しました。

 それでね、ダメ元で録音を聞き直してみたんです。環境音としては無理でも、効果音としては切り出せる部分もあるかも……って。

 結果から言うと、僕の予想は外れました。
 あのお爺さんの声がね、ひとつも入ってなかったんですよ。

 僕の相槌は聞こえるんです。最初の愛想の良い返事も、途中からのテキトーな生返事も……。「失礼します!」という自分の声が聞こえてきたところで、僕は聞くのをやめました。

 それからですかね。
 僕の自宅近くで、あのお爺さんらしき人物をみかけるようになったのは。
いつも、反対側の道路とか、歩道橋の上とか、そういうところにいるんでね。逆光になってたり、暗がりで顔はよく見えないのですが、どうやらこっちを見ているみたいで。

 まあでも、慣れって恐ろしいですね。最初こそ意識して見ないようにしてましたけど、数週間ほど経てば気にならなくなったんです。そして、数ヶ月もした頃にはもう見かけなくなりました。

 季節はすっかり秋になり、僕は再び録音をすることになりました。
 とはいえ、今度は環境音ではありません。効果音です。

 手近なものを使って、それっぽい音を作るんです。
 今回の作品で使った手法ではないのですが……たとえば「ぐちゃぐちゃ」って気持ち悪そうな音を出そうとして、小麦粉と水を混ぜる音を録る、とかですね。

 材料を自分の部屋に持ち込んで、ひとしきり音を立てて、それから音源を聞き直して。
 でもね、なんか変なんですよ。途中で、微妙にノイズが混じってて。

 なんだろう、と思ってボリュームを最大にしてみたら。

「くさったよ」

 ぽつりと、呟くような、老人の声が入っていました。

 ──その音源ですか?

 はい、ちゃんと消しましたよ。
 あそこまで鮮明に入ってるとね、さすがにね。
 ああ、でも──あの音源は切り出して使ったんですよ。変なノイズは入ってなかったので。

 そうです、林でとった環境音のほうです。

 作品のどこに使われているかは……秘密とさせてください。
 でも、聞こえる人には聞こえるのかもしれませんね。

 あついねえ、と笑う声が。
 くさるんだ、と語る声も。

<了>

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