他人を敵か味方かで見ていると無駄に話と認知がこじれるし、味方が減る
主に大昔の記憶上の自分を想像しながら書いている。若気の至りで発言が尖り散らかしてたような気がするので、振り返ってみた。
思えば、自分の主義主張(今思えば願望だったと思うが)に対して相手が(自分にとって)都合のよい返事をするかどうか、受け入れてくれるかどうか、理解を示してくれるかどうか、そうした反応次第で、相手ひとりの評価を敵か味方かで内心ジャッジするような真似をしてしまっていたことがあるように思う。
今にして思えば傲慢もいいところだし、独善的だしで良いことはひとつもない。何がよろしくないのか整理すると、いくつか要素があるように思う。
自分の意見に対する執着が不必要に強い
異なる視点や異なる意見を取り入れることを、自分のプライドを脅かす重大な敗北であるかのように扱っている
過剰な防衛意識が生まれる。他者の見解をミックスしてブラッシュアップすることより、自分の意見の正しさを守ることが目的化する
持ち込まなくて良い、余計な感情を持ち込みやすくなる
相手個人に対する「評価」と同一視しやすくなる。特に、見解が一致しなかった個人を内心で劣った人物と評価する
「好き嫌い」や「優劣」の価値観と結びつきやすくなる
有害な防衛本能・心理反応を誘発する。クローズド・ループを起こしやすくなる
確証バイアス (1) - 自分の説を支持する情報ばかりを無意識に収集し、支持する
確証バイアス (2) - 仮説を反証する材料や、異なる角度からの見解を無意識のうちに収集しなくなり、棄却する
拒絶反応。他者の指摘に対して過敏になってしまい、本当に有用な指摘すら「攻撃」と見なしてしまう
こういった要素が重なって、意固地でプライドだけが高く、独善的な、そしておそらくは(自分の中だけで反芻した)了見の狭い意見に固執する、さらには他者に対して攻撃的な、厄介パーソンが出来上がる。当然他人からも疎まれやすくなる。
そもそも他人を自分の物差しで、ましてや特定の議論に対する意見だけで評価するなどおこがましいにもほどがあるのだが、おそらくこれは次のような心理から来るのではなかろうかと思っている。
本来的な目的(なにかしらのチームの課題解決や問題提起など)がおざなりである
そもそも自分たち自身の「課題」に真に向き合っていないか、忘れている
建設的な意見交換よりも、自分の意見を守ること、すなわち自分のプライドを守ることを優先している
書籍や人などから得た直近のインプットに影響されすぎて、これこそが銀の弾丸だと盲信している(自分の眼前の問題の理解とすり合わせが不十分であるか、そもそも検証していない)
意見に自分自身の願望やエゴが混じっていることに気づかないフリをして、正義であると思い込もうとしている
想定したような肯定・称賛が得られなかったことで自分の承認欲求が満たされず、プライドが傷つけられたと感じて感情的になってしまう。そのような心の作用に無自覚なまま反応をしてしまい、引っ込みがつかなくなる
なまじ、自分では自分の意見こそが正しいとか、受け容れられるべき正義だと思っているので、冷静に振り返ることが難しい。
当然ながら、自分と他人は持っている背景が異なるし、経験してきた立場も異なる。利害関係や普段考えていること、価値観などは、自分が(勝手に)期待している以上に一致しない。
だからこそ意見は「一致しない」「わかってもらえない」ことを前提にして会話するくらいが健康的だし、だからこそ意見を交わすことにも価値が出てくる。
(逆に、自分に同意する意見しか出てこない場所にいるならそれはそれでクローズドループに陥っている可能性があるので要注意)
自分の意見をゴリ押しして通すことが目的なのではなく、その先で達成したいこと、実現したい世界観が目的であるはず。変に意固地になっている人は、まずはそこが折り合うかどうかを確認していなかったり、自分が提示した提案の仔細すべてに同意されなければ「負け」だと思っているのではないか、とも思う。
当然ながらそんなことはない。目指したい大きなビジョンが一致するのなら、本来いくらでもすり寄ることはできるはずだ。それが、内心の自分のプライドや承認欲求への防衛意識に気付けないばかりに、あるいは本来の目的意識を見失ってしまうことで、意見が一致しなかった相手を敵味方の二値で評価してしまうことにも繋がる。
仮に今の議論で折り合わなくとも、他のところでは協力できるかもしれない。でも、おそらく他人を敵味方/好き嫌いの二値で判断する人には、そういう是々非々の対応ができない。
この記事で取り上げたような困った状況で、「権力」に解決を求める心理が働くことがある。このような心理に私は覚えがある。ITエンジニアなら、例えば「テックリード」的なリーダーポジションへの希求があるだろう。
権力で無理やり人を従わせることも可能かもしれないが、私はやめた方がいいと思う。自分とは全く異なる価値観を持つ人に同じことやられたときにどんな気持ちがするか考えてみるといい。権力が自分の問題を解決すると思っているのなら、まずは自分自身の課題から手っ取り早く逃げたい心理が働いてはいないか、その内心に問いかけてみるとよいと思う。おそらく、それで仮に権力を手にしたとしても、あなた(私)の心が自分中心で他者との対話を避けている以上、リードとしての成果を挙げることは難しい。大きな成果は本質的に他者との関与が必須である。他者との対話の姿勢とスキルに欠けた人に、そのような大きな成果が達成できるとは私には思えない。
職業柄 IT エンジニア界隈の情報になってしまうが、「権力さえあれば」と考えてしまう心理がおそらく誤りであることは書籍「スタッフエンジニア マネジメントを超えるリーダーシップ」で体験談を寄稿した複数のエンジニア達が教えてくれる。
さて、ここまで色々問題提起のような話をしてきた。じゃあどうすればいいのか?と言う話だが、自分もまだ確立した答えはない。ただ、結局のところは自分の内心に正直に向き合って、その Why に自覚的になることであろうと思う。「そもそも自分はなんでその意見を通したいのだ?」と正直に自問すること。その意見の出どころだけじゃなく、通したいと思っている自分の心理にも目を向けること。
正直に向き合った結果が「自分の願望」優位な話なら、まずはそこに対して自覚的になってから主張を組み立てた方がいい。「最終的には、これは私のエゴだ。どれほど私の意見が妥当であっても、目前の相手がこれを素直に聞き入れる義理は本来ないのだ」と覚悟してから戦うといい。少しは他者の意見に対して謙虚に向き合えるはずだし、自分に対する拒絶(に見える反応)への耐性が少しはつくはずだ。
自分の至らなさを直視する覚悟も非常に重要だと思う。結局そこから目をそらすことがすべての悪い循環の始まりであり、自分の成長や他者との関わりを閉ざすことに繋がる。自分は自分が思っている以上に無知だし、同じように他人は自分が思うよりも自分の知らない世界を知っている。そういうつもりでいるのが精神的にも健康だと思う。正攻法や誠実さ、謙虚さから逃げた先によいことはない。
追記(1)
勝手ながら、以下のポストから一部引用させていただく。
この記事で書きたかった話にものすごく近いことを言っているように見えた。自分が持っているこの問題意識や義憤こそが絶対的に正しく、そこに自分と同じ温度でついて来れない人に敵性を見出してしまう、ということなんだろうなと。
この基準で他人を見ていると、本来味方寄りの意見を持つはずの他者ですら、自分と同じテンションを共有できないがために敵判定を出してしまいがち。今の私には、作らなくて済んだはずの敵を自ら増やしに行く思考パターンに見える。
追記(2)
この記事を書くときに思っていた過去の「内心」を的確に説明する記述を見つけたので、紹介させていただく。
根本的には、昔の自分には自信がなかった。だからこそ、自分の想定とは異なる反応に対する許容値が低くなってしまい、ちょっとした細部の見解の相違ですぐに冷静さを欠いてしまう。
「聞きたくない」という表現も非常に的確だと思った。自分が他の価値観を受け入れたくなかった、しかしそれでは自分の狭量を意識しなくてはならずプライドが傷つく。よって、自分が傷つかないように辻褄の合う「解釈」をひねり出す。その結果、相手の愚かさを攻撃しだす。典型的な認知的不協和。
内心では、自分が認められたい相手から現状は理想通りの認められ方をしてないことにも気づいている。ただ、それを言葉にして、認めてしまっては至らない自分を直視することになってしまう。だからこそ自説を認めさせることに異常に執着してしまい、些細な反論や指摘が受け入れられなくなるし、その議論の本来の目的であったはずのゴールをすぐに忘れてしまう。その議論における内心の優先順位が、自分のプライドを守ることにシフトしてしまう。
この記事の趣旨と自分の記事で述べたい文脈は異なるかもしれないが、自分にとってはこのタイトルは非常に良く昔の自分の過ちを表現しているように思えたので勝手ながら紹介させていただいた。
追記(3)
あくまで自分自身に向ける心持ちの話として書いている。発言者本人の心持ちとしては気にしてほしいけど、他者から出た意見を(本質を受け取らずに、口調だけを問題にして)諌めるための方便として使ってほしくはない。
上の方で、こんなことを書いた。
このセリフを意固地(に見える)な他者に向けてしまったらそれはそれで問題があると思うので、まぁ用法用量には注意。本質的に私が言いたいのは自分の内心を直視する覚悟を持つことと、より大きな目的を忘れないこと、この2つ。
あと、この話の立場を反転すると、人に意見するときの心持ちとしても意識できることがある。相手に余計な防衛本能を起動させないように自分の振る舞いを考えることは一見意見の本質とはかけ離れているように見えるが案外重要で、異なる人を交えてより話し合いを建設的な時間にするためにも必要な歩み寄りである、と考えればいいのではないか。誰だって、散らかり放題、攻撃し放題、生産性などない、議論とも呼べないような時間を、好んで過ごしたくはないはずだ。
追記(4)
そろそろ追記の方が長くなってしまってきている…。
この記事で述べたかったことは発信側の心持ちにフォーカスしたものだ。ここで、少しだけ意見を受け取る側の話を書くことにする。
受け手としては、相手の言い方にイラッとすることもあるだろうが、きちんと本質を噛み砕いて確認するようにしていけるとよいと思う。これはまた別なトピックになるので「受け手の問題」として掘り下げてみたいところ。
受け手の心持ちとして、「言いたいことはわかるがお前が気に食わねぇ」などとは言わないようにしたい。これは発言側の傲慢さと同じく、結構態度に出ていることが多い。こういう態度を続けていると自分に意見してくれる人が減ってしまう。フィードバックが減るということは、自分の世界観を広げるチャンス自体が減るということ。フィードバックが減ることこそ人格やキャリア、スキルなど、あらゆる成長における「致命傷」だと私は思う。特に、若手や後輩から意見しやすい人だというイメージを持っていただくことが大事。他者から積極的に教えを請い、意見を受け入れる態度を示そう。
もちろん、無条件に賛同しろとは一切思わないし、発言する側もそこに甘えて「本質を見てくれないなんて!!!」などと一方的に期待しないようにしよう。言い方も「伝える努力」のうち。そして、「受け取る努力」もコミュニケーションには必要。
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