自分の辛さ・悲しみ・怒りに素直に向き合い、捻じ曲げないこと


どうも。IT エンジニアやってます hassaku と言います。

ふと最近思ったことをタイトルで言語化してみました。自分の中のネガティブな感情を拗らせるとロクなことがない、という話をします。

これからする話は基本的にデール・カーネギー先生の書籍「人を動かす」「道は開ける」や、「アサーティブ・コミュニケーション」の考え方から影響を受けています。末尾に参考書籍を紹介しておきますので、もし興味があればそちらを読まれることをお勧めします。

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他者あるいは組織への不平不満や、
組織や会社などの大きな主語かつネガティブな文脈で XXX かくあるべき、といったような
口を開けばそういう他者への不満や批評ばかり出てくる方が一定数いらっしゃると思います。また、そうした傾向のある方のさらに一定数は自分の発言を「建設的な・本質的な批判」だと本気で信じておられるようです。

おそらくその方には、私には想像できないような多くの苦労やストレス・プレッシャーを経験されていて、そこから来る辛さの発散としてそうしたコメントのひとつやふたつ言わねば気が済まないほどのフラストレーションを抱えておられるのだと思います。
所詮私は他人なので、他人の思惑や経験した苦しみを真に理解してあげることはできません。だから、きっとそれだけのしんどい経験をされたんだろうと、そう同情するくらいしかできることはありません。

ただ、そうした内面・内心の話は別問題として、そういう発言の傾向が出ているという結果に対しては、自分は擁護できない NG 行為だと思っていますし、他者やチーム・会社組織に対する損失行動だと思っています。

「どうしてその場の気持ちをスッキリさせるだけの行為を優先するのだろう?」
「相手を不愉快な気持ちにさせたり、同意や同情のリアクションを強請るような真似をして、一体何がしたいんだろう?」
「そういうネガティブなことばかり言っている人に、誰が積極的に背中預けたいと思えるか、想像が及ばないのだろうか」

などとも思います。正直その行動は自分側の損が大きすぎるので愚かでしょと思うんですけど、でもまぁ、やはりメンタルに余裕がないとついネガティブ発言のひとつやふたつは出てしまうものです。かく言う私だって、どうしようもなく追い込まれれば、他責思考な発言が多少なり出てしまうと思います。私も愚か者の仲間です。

ネガティブ発言をしてしまうその背景に関しては想像や同情の余地がありますし、本人だって「できるものなら自分だってこんなこと言いたくない。でもしょうがないんだ」と心のどこかで思ってるはずだろうと、そのようにも思います。

この記事では、そうした「望ましくない振る舞い」について考察しつつ、私なりの理屈で「そういうの、やめといた方が得だよ」と述べてみようと思いました。

発言傾向の考察

多くの場合、こうした発言をする手合いには共通する傾向があります。
以下のような要素のいずれか、あるいはそれらの組み合わせであることが多いように思います。

  • 他責思考である

  • 本質的には自分が受けた苦痛やストレスを発散するための愚痴が主目的である

  • 他者や組織などに対する批評の形を取るが、「ではどうすればもっと良くなるのか」あるいは「自分に何ができるか/できたか」の案はない

  • 「奴らが改善すべきだ(≒私には関係ない)」のスタンス以上の意見は出て来ず、主体性のあるアイデア・コメントは基本的にない

  • ままならない現実に対して自分はどうするのがベストだったのか。自分の言動に省みるべき点はなかったか。そうした自己の至らなさを振り返る視点が欠けている

  • 自分の立場のみで発言しており、自分の「批評」の正しさや理屈付けもまた、自分の立場のみを意識した発言内容となっている

  • 言及対象となった事案に対して、その場にいた他者にはどのような立場があったのか、どのような利害関係があったのか、といった事情を想像していない

  • 批評の形を取るのは、自分の愚痴だけでは受け入れられないことに薄々気づいているからであり、社会的な正当性や正義を被せることで予防線を張ろうとした心理の顕れ

全部がそう、という気はまったくありませんが、基本的には
「自分が辛い、しんどい思いをした」という気持ちの吐露が本質だと思ってます。

いい歳した大人になるとそういう弱音が許されなくなってしまう部分、ありますよね。しんどい世の中です。自分の辛さをどうにかして和らげたい、でもそのまま発散してしまっては自分が悪者になってしまう。だからこそ「正しさ」を味方に付けるために他者や組織への批評批判という姿でラッピングするんだろうなと。自分がしんどかったことを吐き出すために、色々な社会性フィルタのようなものを通り抜けて最終的に出力されるのが、上記のような傾向を伴う発言というわけです。

おそらく、その批評や批判はある程度当たっているし、本質的な問題の一部を捉えているのだと思います(そうでなければ自分の愚痴を正当化できませんしね)。

その方が問題意識を感じたトピックそれ自体に関しては、一定の考慮価値があることが多いと思います。ただし、本来それって「愚痴」と「現状分析」「改善案」などで切り分けができるはずで、それをごっちゃにする行為は基本的に無益だと私は考えます。

一見批評の体裁をしているものの、本質は「自分が辛い思いをしたので聞いて欲しい」という愚痴なので、基本的に建設的な・前向きな具体的意見はありませんし、自分に対する反省は少なく他者の不備を責める意見の傾向が強くなります。そうしなくては自分が悪かったと認めることになってしまいますから、目的のための辻褄合わせとして自然とそうした傾向が出やすくなります。

愚痴を否定する気はないです。辛いなら辛かったと、しんどいならしんどかったと素直に言えるのが一番だと思いますし、私だってネガティブな発言が一切許されないような世の中なんて御免被ります。「ネガティブなことを表で言っちゃいけないよ」だなんて、窮屈すぎますよね。

メンタルに負荷が掛かっているとき、人は「逃避」や「攻撃」といった反応によって自己を防衛しようとする傾向があるそうです。この手の "批評風の愚痴" のうち、一定の割合はこの防衛反応の顕れであろうと推察します。

問題は自分の中にある淀んだ感情そのものではなく、そうした感情に素直に向き合えず、社会的な正義の皮を被せようとしてしまう「ごまかし」にあるのだと思います。

また、そうした下心を隠すための「批評」は、得てして他人からも透けて見えるものです。一度そういう視線で見られてしまったら、おそらくあなたのが本当に吐露したかったはずの「苦しかった」「しんどかった」気持ちはもう見てもらえないでしょう。

結果的に、誰もあなたの辛さを真剣に取り合ってくれなくなってしまいます。それは本当に苦しいことですよね。

どうして問題なのか

自分ひとりで成果を挙げるような完全個人プレイのスタイルであるなら、多分こういう振る舞いをしてても目に見える損失や支障は出にくいと思います。
しかし、本質的に大きな成果を出そうと思ったら必然的にチームの同僚やマネージャー、そして他部署、経営陣、お客様、などなど、多くの人間を巻き込んで利害を調整しつつ、ときには個人の主義主張を曲げてでも全体でよりよい結果が得られるように物事をうまく運んでいくことが必要になると考えます。

例えばこれが天才的なハッカーであるとか、突出した能力の持ち主であれば、周囲がその人物に合わせてくれることもあると思います。こうしたエッジケースであればソフトスキルが相対的に要求されない場合もあるかと思いますが、残念ながら私も含めてほとんどの人間はそうではありません。

だからこそ、大きな成果を出すためには自分の個人プレイが発揮できる領域のスキル(例えば自分ならコーディングなどです)だけでは不十分で、きちんと周囲を巻き込んで建設的にやってくための「ソフトスキル」が必要になります。
マネージャー、役員、CxO、などなど、個人ではなく組織の成果に対して職責を負うような立場を目指すのであれば、こうしたソフトスキルが要求されることはほとんど必然であると、私個人は考えています(まだ経験したことないのでエアプコメントですけどね)。このような組織のリーダーでなくとも、大きな成果を出そうと思ったら必然的に立場の異なる他者との協調は必須ですので、同様のスキルが要求されると考えます。

…と、ここまでのフリを経て本筋に話を戻します。

普段から他者への愚痴や改善アクションに繋がらない批判ばかり発言している人物がいたとして、そういう人をチームに入れたいと思えるかどうか?という話です。

このセクションの冒頭で述べたような「多くの人間を巻き込んで、うまくやる力」が要求されるとき、この人物像はマッチするだろうか?ということを考えます。私はミスマッチだと考えます。

どこで損をするのか?

(承前)少なくとも私が人事権を持つ立場であれば、上記のような言動傾向のあるメンバーは嫌です。チームメンバーと不和を起こすリスクが高いと考えますし、その不和の解消に余分なマネジメントリソースを消費させられ、他のチームメンバーが消耗してしまう状況を想像してしまいます。大事なプロジェクトであるほど、可能な限りメンバーに入れない選択をしやすくなると思います。

普通の話ですよね。能力や実績に大きな差がないなら普段から物腰穏やかで建設的に振る舞える方に来てもらった方ががいいに決まってます。最終的には人と人で仕事してるわけですので。

普段から愚痴とか(非建設的な)批評ばかり発言してるようだと、私個人としてはそんな様子で人から信頼されるわけがないし、そんな人物にチャンスを回したいと思う人間は少ないだろうし、大きな成果も出せなさそうだな、などと想像してしまうわけです。

あくまでもビジネスとして成果を出すことが(当然ながら)最優先ですので、その方が該当プロジェクトに対してマッチするご経験・スキルをお持ちであることがわかっているなら、上記のような要素を加味したとしても引き入れる選択もありえると思います。そのへんは人事・決裁する側に立つならドライに判断することが必要と考えます。

でも、同じ条件でもっと人当たり良い方がいるならそちらが選ばれやすい傾向が出ても、それは仕方ないですよね。ソフトスキルで減点されてるわけですから。自分の知らない場所で、知らないうちに損してるわけです。でも、そうなったとしても、それはご自身で引き受けた選択の結果ですよね、と私は思うのです。自分が自分自身の鬱憤を一時的に晴らすために他人を利用したのだから、このような形でその因果応報が巡ってくることもまた、あなたが自分で選択したことですよね?と。

ここまでの話をまとめると、普段からマイナスな発言や愚痴ばかり述べていることで生じる損失は「打席を回してもらえる回数そのものが減る」です。
打席に立った上で失敗できるのなら、まだ自覚や反省の機会があるだけマシです。打席を回してもらえなくなるということは、自分の振る舞いを振り返る機会すら与えられない、ということです。これは最も取り返すのが難しい類の損失である、と私は捉えています。

ここまでの考え方はあくまで私の思想であり他人に見習えと強要する気は毛頭ありません。が、少なくとも、私は私自身を戒めるためにこうした考え方をしています。これは他者への配慮ではありません。自分にとってそうする方が得だからそうするのです。

「中身」でなく「振る舞い」によって評価されている

ここまでの話題はいわゆる「人柄」「人格」などと呼ばれる要素にも思えます。しかし、私の感覚ではこれらの言葉は少々意図するニュアンスが異なります。

ここでのポイントは他者の内心や「本当の人柄」などといったものは計測できないし、また評価することもできないということです。

人が人の内心を勝手に決めつけて評価するなどおこがましいことです。他人の「本質」など評価しようがありません。一方で、外から見える「振る舞い」は観測可能です。

その人と一緒に仕事したいかどうか?と考えたとき、他者を評価するポイントは、自分の「本当の中身」などという曖昧なものではなく、外から観測した振る舞いの積み重ねによって判断されるものだと考えます。

そう考えたとき、愚痴や他人の批評が多い人を見て、他人からどう映るだろうか?と。(「他人」は必ずしも、その方の普段の仕事ぶりをよく知っている人間ばかりではないでしょう)

別の表現をすると、普段の言動の積み重ねは、自分の人柄を表す「成果物」として【不特定多数】の他人から【勝手に】評価されてしまうものである、とも言えそうです。

普段の発言や態度=アウトプットによって、自らの「人柄」なるものを、他人の物差しで勝手に評価されちゃうわけです。

これって仕事と同じですよね。他者からの評価に不本意や不満を感じることなんて、いくらでもあると思います。でも、他人がどう感じるのか、その内心を他人である自分がコントロールすることはできません。できることはベストなアウトプットを出すこと、あるいは言葉を尽くすこと、あるいは割り切ること、そのくらいでしょう。

自分がコントロールできない範囲を気に病んでも、何も好転しません。コントロールできる範囲での努力、すなわち自分のアウトプットの質を良くして「勝手に評価する不特定多数」の印象を底上げするように努めたほうが、よほど投資効率の良い選択と言えはしないでしょうか。

このような考え方をしていくと、他者の愚痴ばかり振りまく行動がいかに自分にとって損失であるか、わかると思います。

それでも僕らはしんどい。どうすればいいのか

ここからは趣を変えて「とはいえ、ねぇ・・・」という話をします。

ここまで散々綺麗ごと書いてきましたが、それでも愚痴のひとつも言わなきゃやってられんテンションのときだって、あるわけでして。それを否定しちゃったらおしまいですよね。私だって、愚痴や批判が許されない世の中なんて嫌です。

愚痴りたい側の話

まず、愚痴ってしまう側の立場では「自分の負の感情を素直に受け入れる」ことと「外的刺激とそれに対する解釈・反応は切り分けて考える」この2点が最も基本、かつ重要かなと思います。

例えば、A という他部署との折衝がうまく行かず無碍な返事をされてしまったとき、「どうしてあいつらは…」と思ってしまうことがあると思います。それによって大きなストレスを受けてしまったとき、解釈や反応のパターンはいくつもあろうかと思いますが、このとき、

  • 「私は XXX の打ち合わせの場で XXX と言った」

  • 「相手は XXX と発言した」

  • 「A 部門はこちらのリクエストを受け入れられないと回答した」

  • 「この件の対応によって、自分は XXX の理由で XXX と感じた」

・・・と、このへんまでが事実です。
それ以上の話は「自分がどう解釈するか/反応するか」の話であり、自分でコントロール可能な範疇です。

ここで、「どうしてわからないんだ!A部門の奴らはクソだ!」と結論づけてしまうと、悪い循環にハマってしまいます。これは事実ではなく自分の「解釈・反応」です。ご自身の見えてる世界観・価値観の範囲のみで判断した「解釈・反応」であって、それが事実かどうかは【まだ】わかりません。

この記事の主題である愚痴の文脈で言えば、大事なのは
「この件の対応によって、自分は XXX の理由で XXX 感じた」
の部分です。

不本意な結果に終わってしまったことや、あるいは自分が相手から軽んじられてしまったように感じたこと、そうした感じ方は自分だけのものなので、それは事実です。自分が悔しい思いをしたことや、どうして悔しいと感じたのか、それは整理しておく価値のあることです。

でも、そこで「A部署の連中は敵だ!」「わからず屋だ!」と判定して攻撃的な姿勢を取ってしまうのは、一足飛びな考え方です。実際、本当にそうなのかもしれませんが、まだそれが本当かどうかはわかりません。

他人の内心や事情など自分には知り得ないことがあるでしょうし、もし仮に相手方にやむを得ない事情や背景があっての結果だったとしたら。あるいは、たまたま相手側の言葉選びが噛み合わなかっただけで、実際にはあなたのことを無碍にする意思などなく対話を望んでいたのだとしたら。さらには、あなたが気づいていないだけで、実際には相手に先に大変な失礼を働いていたのだとしたら。色々ありますね。
そして、諦めずにもっと丁寧に真意を深掘りしていたら。全く違った結果になっていたかもしれません。

こうした裏側の可能性は、いくらでも考えうるわけです。そうなると、そこで安易に突っかかった自分こそが視野の狭い愚か者だった、ということになりはしませんか?それってめちゃくちゃダサいですよね。

仮にそんなダサいことになってしまったら、もういよいよ引っ込みが付かないですよね。そこで撤回できる人はほんの一握りだと思います。突っ張った手前もう引けない、ということになってしまったら、後はもう沼に沈んでいくだけです。そこまで行き着いてしまったら、それこそ本当の愚か者になってしまいますね。私は自分自身を撤回できない側だと思っているので、その意味でもリスクのある決めつける言動をなるだけしないようにしています。

このような発想はとても利己的な考え方かもしれませんが、私はそういうダサい結果を味わいたくないし、愚か者にもなりたくないので、自分自身のためにもできるだけ相手方を決めつけるようなスタンスは取らないようにしています。

この例で言えば「自分は無碍にされたと感じた。苛ついた」といった感想までは否定せず受け入れて良いものです。そこは大事にしましょう。それより先の解釈・反応・判断は踏みとどまった方が、望ましい成果を出すためにも、また自分のメンタルヘルスの観点からも、好ましい場合が多いと思います。

〜〜〜

実際に相手の言い回しがあまりにもキツく、かつ自分の方には思い当たる理由が考えられない…といったケースもあると思います。そうした場合にできうる対処は、

  • 自分の側にも何かしらの非があったのかもしれない

  • 相手が今たまたま虫の居所が悪かっただけかもしれない

のような仮定を起きつつ、謙虚に自分の気持ちを伝える、あるいは真意を問う、といったアクションになるかなと思います。以下例文です。

  • 「XXX さんの仰っていることは把握した。しかし、こちらもそれなりの思惑があってご相談しているわけで、そこまで無碍な反応をされると非常に軽んじられているように感じて悲しい」

  • 「本当に一切、検討の余地はないのだろうか?私の立場では見えていないご事情があるように思うのだが、よかったらその理由、背景をお伺いできないだろうか?」

こうした言い回し以外にもやりようはあると思いますが、色々試した上で引き続きつれない回答が返ってくるような事態が繰り返されるようであれば、あなたは最低限やることをやったと言えると思います。そこまで拗れた状況であればおそらく個人間で解決できる範疇を超えていると思いますので、その折衝が仕事上本当に必要なことであるならば、上長など第三者に相談するなどして、調整・交渉の協力を仰ぐなどしてもらうのが良いと思います。

※このときも「A部署の連中がクソなので仕事が進みません」などと言ってはだめです。それは個人の感想であって、報連相の内容として適切じゃないです。報連相ではなく愚痴を聞いて欲しいのなら、そう前置きした上で、自分のケジメでクソだと言いましょう。

ポイントは、自分が感じた負の感情をきちんと受け入れること、そしてその感情や出来事に対する解釈・反応は自分次第であることを自覚して切り分けることです。
ここを拗らせてしまったら、その先に待っているのは冒頭に述べたような「正義を盾にした、批評の形をした愚痴」を垂れる人間…ということになります。

愚痴られた側の話

私個人の話をすると、まずそういう手合いからは距離を取ります。自分に関係のない場所で勝手に愚痴ってくれればいいし、その分勝手に損しててくれ、と思います。そして、可能な限りその人に対して「貸し」は作っても「借り」は作らないように振る舞うと思います。
薄情な奴と思われるかもしれませんが、どこまで行っても他人は他人だし、他人の人生に責任なんか取れっこないので。最終的には他人にできることなどない、と思ってます。

…これだけだとあまりにも身も蓋もないので、もうちょっと建設的な話もします。大原則は以下の2つかなと思います。

  • 他者への批判や攻撃的な発言などには同調しない。

  • 相手が感じた、しんどかった「気持ち」に対してのみ肯定する

自分的には「あなたはそう感じたのですね」「当事者でない私には軽率に判断できないことですが…」「相手方に何かしら特段の事情でもあったんですかね〜」「確かに、もし XXX さんの言う通りだとしたら、ちょっとしんどいですね」という表現の仕方をよく選ぶような気がします。

相手の主義主張に同調しないことが大事です。そこは「わからない」や「判断できない」と言うようにしています。片方の立場だけ、しかも又聞きの話で物事を判断するのは不誠実だと考えますので、明示的に中立の立場を取るようにできるだけ心がけています。

もうちょっと近い間柄である場合、あるいは内容が看過できないと思った場合には、本当に余計なお世話だよなぁとは思いつつも
「それって、別の〇〇の視点から見るとこういう解釈もできるんじゃないの?」
のような、視点を変えるような問いかけをしたりする場合もあります。

※なお、上記のリアクションは愚痴を聞く役目として、もしくはカウンセリングする側の立場として見ると0点の一次回答だと思います。メンタルケアが必要な相手に対して必要な最初のリアクションはそこじゃないんだろうな、と私は思ってます。

この手の会話が発生したとき、相手が建設的なアイデアもしくは有効な個人レベルの次アクションの明確化を望んでいるのか、それとも単にしんどかった気持ちを吐露したいのか、どっちの方向性に比重があるのかは観察するようにしています。
まあ、前向きなテンションと話題があるかどうかでそのへんはおおよそ判断が付くと思います。どちらかが 100 or 0% になるようなケースばかりではないと思いますので基本はケースバイケースの判断になりますが、もし愚痴100%だなと思ったら【できるだけ】カウンセラーのスイッチを入れて応答するようにすると良いと思います。相手を「メンタルケアを必要としている人」とみなして、ケアのための会話を心がけるようにします。ただし、この手の話は聞く側にもカロリーが要求されるので、少なくとも自分の方に受け取るだけのエネルギーが残ってない場合や、その相手のことがさほど好きではない場合などはもっと適当に流すと思います。

100%ネガティブ寄りのテンションだったとしても、それは愚痴というよりむしろ実際にどう対処すればいいか困り果てているケースもあると思います。そういう場合は建設的な話に持っていく価値があるし、その方の助けになれることがあるかもしれません。だから、僭越ながら自分の視野で見えているような情報や考え方をお伝えしたりすることもあります。

言うても人間同士の話なので、諸々な思惑や感情が混ざり合ってて、どれか1つには定まらない場合が実際はほとんどじゃないかなと思います。なので、愚痴っぽい相手が絡んできたとしても、その思惑を「こいつ、俺を捌け口にしようとしてるな」などと勝手に決めつけないで、建設的なコメントが求められてそうなら必要に応じてそういうコメントもしてあげるといいのかなって思います。

※とはいえ基本は相手が考えて相手が決めることなんで、押し売りはしないようにしましょうね。アドバイスなんて基本余計なお世話だし、お互いそんな高尚なこと言えたほど立派な柄じゃないです。

まとめ

自分の気持ちに素直に向き合うことと、負の感情を受け入れること、それを拗れた方法で吐き出さないこと、そういうのが大事かなと思います。

自分がしんどかった、苦労した話を聞いて欲しいのなら、素直に「こういうことがあってしんどかった」とか「これはただの愚痴なんだけど、しんどかったから聞いて欲しいんだ」と素直に言えばいいんですよ。他人や組織を攻撃したい気分になるときもあるでしょう。そうしたいのなら勝手にすれば良い。でも、自分の意見が的外れであったり、視野が狭く偏った思想であったことが後で発覚する可能性も承知した上で、「ダサい自分」が露呈するリスクを背負って、自分のケジメでしっかり攻撃すれば良いと思います。

愚痴なら愚痴と素直に言えばいいし、攻撃したいなら攻撃すればいい。他人が/組織が/会社が、だなんて、それっぽい正義の皮被せるのはやめましょうよ。自分にとって気に食わないことがあった、それだけの話を「正義」でコーティングするのはあまりにも不誠実だし、そこをごまかす癖が付くとロクなことにならないです。何年も経って、自分でも気が付かないうちに歪んだ人格形成を助長して、その結果大損するのは他でもない自分なんですから。

その拗らせを悪化させた先にあるのは、ナチュラルにかつ真剣に
「俺は悪くない。XXX が悪い・組織が悪い」
「この俺の本質的な批評が受け入れられないなんて、この会社は終わってる」
などと呪詛を垂れながら、そのくせ転職するでもない、大きな成果も出せず、自分の手も汚せない、前向きなメッセージを発するでもない、信頼もされない、悪い意味での「批評家様」です。そんな有害でダサい大人には、なりたくないですよね。
(※あくまで比喩です。評論する職業の方を悪し様に言う意図はありません)

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受け手側の心構えも大事だと思います。
ネガティブな言動、あるいは自分にとって不都合な発言を受け取った側は、相手の意図を安直に決めつけずに誠実に対応するのが一番かなと思います。そして、安易に主義主張に同調しないことです。あなたも同類としてカウントされてしまいます。気持ちに寄り添うだけにしておきましょう。

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私の場合は「狭量な、視野の狭い、ダサい大人になりたくない」という考えが非常に強くて、ここに書いたような話の動機は最終的にそこに行き着きます。

世のため人のため、などという立派な動機からはほど遠いですけど、結果的に「ええ感じ」に周囲と協調していい仕事ができればいいなと思います。

…また、私はあたり構わず周囲に「批判という名の愚痴」を撒き散らすようなひねくれた真似が心底嫌いです。かく言う私も、この記事のような愚痴の形ではないものの、これに近いことを今年に入ってからやってしまいました。そのときは、自分の失態を指摘され、受け入れられず、それっぽい言い分で取り繕って…というケースでした。そんな曲がった対応をして、結果どうなったかは言うまでもありません。その日の夜は久々に酷い自己嫌悪を味わいました。
このような曲がった真似が、私は本当に嫌で仕方ないです。それを浄化するためにこの記事で言語化をしてみました。

余談

長々書いてはみましたが、結局私がここまで述べたような考えも所詮はポジショントークだと思います。資金に余力のある会社で倒産の心配もなく、自分自身も仕事や信用をすぐに失う心配のない状況でサラリーマンやってる立場だからこそ、こういうことが言えるんでしょう?…と。自分が今安全圏にいる自覚は持っていたいところです。

他人と協調して成果出してくうえで、普段から好ましい振る舞いをするのは極めて大事だと思いますし、その意見自体は変わりません。でも、フリーランスやベンチャーの創業者など、自分が食っていくために自分自身で大きな責任とリスクを背負い、なにがなんでも結果を出さねばならない立場にある人がこんな悠長なことを考えるだろうか?って想像すると、あまりそうは思えないのですよね。

私自身も、フリーランスや起業ほどではないですが、過去に副業をし個人として仕事を請ける経験をしました。後ろ盾のない自分自身で勝負することに怖さを感じましたし、そこでの経験から少しは「成果」というものに対する考え方もアップデートできたように思います。

結局大事なのはビジネスに貢献するアウトカムを出力し続けることであって、エンジニアとしてのスキルやコミュニケーション等のソフトスキルなど、一切合切の要素は成果出すために必要なら学べ、行使しろ、それだけだと思うのですよね。1万文字近く述べたこの記事の話だって、それが必要とされる状況だと思うのなら成果のためにそうしろというだけのことです。自分の手を汚して、言葉を尽くさなきゃ、成果は出せないわけで。

参考書籍

最後に、ここまで書いてきた私の考え方の根っこを形成している書籍をいくつかご紹介しておきます。


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