母の命日を前にして
2月15日は母の命日(千葉ウメ)です。この日はお釈迦様の入滅の日でもあり、各地で涅槃会が開かれています。
99才で他界した母の生涯を改めて振り返り、新たな世界が生まれようとしているこの時期に、鉢の木創業40周年を期にまとめた文書から、今後の道しるべを探そうと思います。
連載 第一章
鉢の木物語〜第一章〜
はじめに
鉢の木代表 藤川譲治
一人息子の私が物心ついた頃から、我が家にはいつも誰かしら家族以外の人が居たように思います。
森岡澄さんは木工を、間瀬菊江さんはろうけつ染めを、他にも子供会や近所の人たちが何かにつけて出入りしていました。
今はない平屋の家を思い返せば、そんな温もりのある光景が蘇って来ます。
個人の家にしては広かったこともありますが、人が喜ぶことをするのが好きな母を、みなさん慕ってくださったのではないかと今さらながら、ありがたく思います。
『鉢の木』誕生
鉢の木創業者 千葉ウメ
北鎌倉の建長寺。北条時頼が建立した由緒あるそのお寺の門前の、小さな仕舞屋で私は思案に暮れていました。
明日からどうやって食べて行こう。一人息子の譲治はまだ小学生。姑もいます。
皆の生活が私一人の肩に掛かっている・・・訳あって、そういう事情になりました。
すでに私は四十七歳。これまでずっと主婦として家庭の中の働きに専念していた私にとって、これから先、一家の大黒柱としてがんばっていくことなど途方もないことのように思えました。
しかし、考えていても始まりません。いえ、考えている余裕などありません。
私にできることをやるしかない、そう思った時、浮かんだのは、食べ物屋さんでした。
そういえば、私の家は、以前は奈良漬寿司のお店だったようで、私たちが住むようになってからも、まだお寿司屋さんをやっていると勘違いした人が入ってきて、こちらも驚いたことがありました。
そんなことも思い出しながら、地の利は悪くない、という確信を持ちました。
そうはいっても、当時はこの辺りはほとんど店らしい店もない静かすぎるほどの場所でしたから、こんなところで商売をやるなんてと反対する人もいましたが、建長寺さんの門前でもあり、参拝客をあてにする気持ちもありました。
そして峠の茶屋ではないけれど、緑深いこの道を歩いてきて一休みするような店として、おにぎりに野菜の精進揚げを添えて出したらどうかしら・・・。
それなら私にもできそうだと思ったのです。
やってみて、もし、だめだったら、その時は下宿屋でもやれば何とかなる、と腹をくくりました。
決心したら後ろは振り返らないのが私の性分。早速店の開店準備にかかりました。
開店にあたっては、大勢の方にお世話になりました。
いちばん相談にのっていただいたのが大石正雄さん、恭子さんご夫妻でした。
恭子さんとはろうけつ染めの仲間で、ご自分で商売をした経験があるというので、真っ先に相談したところ、会社経営をしている御主人の正雄さんも親身になって何かとアドバイスを下さいました。
その後、物心両面において私が一番苦しかった時に支えてくださった、まさに『鉢の木』の恩人のような方々で、息子の結婚の際には仲人もお願いしたほどです。
『鉢の木』店名の由来
店の名前は、友人の間瀬さんが「建長寺の門前という立地だし、建物の雰囲気を見ても、『鉢の木』がぴったりよ」と勧めてくれて決まりました。
歴史や仏像のことなどを研究するのが趣味だった間瀬さんは、謡曲『鉢木』にまつわる故事をよく知っていて、私の店の名に、と提案してくれたのでした。
ここに、当店の名前の由来となった謡曲『鉢木』にまつわる故事をご披露しましょう。
源左衛門常世が貧しさゆえに何もないながらも家宝の鉢の木で火を焚き精一杯のおもてなしをしたように、私も立派な板前さんのような料理は到底できないけれど、主婦として培ってきた家庭料理のおいしさを提供し、おもてなしの心を精一杯尽くしたいと思いました。
『鉢の木』という名前はまさにぴったりのよい名前だと、すぐに気に入りました。
そして後に新館が建った辺りは、出家した時頼が、住まいとした最明寺のあったところだとか。不思議な因縁を感じずにはいられませんでした。
『鉢の木』の看板を作ってくれたのは、森岡澄さんです。森岡さんはアイヌ彫りの彫刻をしていた方で、当時はわが家の入口の土間を仕事場として貸していたのですが、事情を知って自分から看板製作を申し出てくれたのでした。
アイヌ彫りらしい素朴さの中に情熱の感じられるすばらしい『鉢の木』の看板ができ上がりました。
創業当時のこと
こうして、周りの方々の助けを得て、昭和三十九年二月二十六日、『鉢の木』は開店したのです。
森岡さん作の看板を玄関脇に掲げ、戸口には私のお手製のろうけつ染めの暖簾を掛けました。
三角にむすんだおにぎり三個、ニンジンやゴボウ、インゲン、シイタケのかき揚げ、ナスの揚げたもの、揚げ田楽、などを盛った小さなざる。季節の野菜のおみそ汁。私が自宅用に漬けていた糠漬け。それらを半月のお盆にのせて、お客様に出しました。最初は二百五十円か三百円ほどだったと思います。
ところが、特別に宣伝をしたわけでもなく、ましてや私が風邪をひいたことで延び延びになった挙げ句の開店ですから、ここでおにぎり屋が始まったことなどほとんど知られず、お客様がなかなか来ません。
建物の通りに面したところが店、奥は家族の住まいとしていましたが、姑はなかなか来ないお客を待っているのが辛いというので、近くのアパートへ転居することになりました。毎日やきもきさせて、疲れさせてしまったのでしょう。
開店休業状態のような辛い日が続きました。
それでもぼつぼつと通りすがりに看板を見て入ってくれるお客様を相手に精一杯の仕事をして、根気よく店を開いているうちに日を追ってお客様が増えてきたのです。
手作りのおいしいおにぎりや精進揚げを出す店がある、と一度来てくれたお客様の口コミで評判となったようで、うれしいことでした。
また、ちょうど東京オリンピックの年でしたが、この頃は高度経済成長の時代であり、ようやく日本人の生活にゆとりが持てるようになった頃でもありました。働きづめだった生活からレジャーという発想が定着しつつあり、鎌倉も観光地としてにぎわい始めました。
雑誌などが「行ってみたい街・鎌倉」と特集を組む度に訪れる人が増え、当店もこうした観光客の姿が増えていきました。
そのうち、私一人の手には負えなくなり、近所の奥さんなどにお手伝いに来てもらうようになりました。
それも臨時から、やがて常時へと勤務態勢をお願いするまでに、店の忙しさは増すばかりとなりました。
初めての団体のお客様
わが家の裏に鈴木さんという大工さん夫婦が住んでおり、そこの奥さんもうちで働いてくれた一人でした。まだ二十一、二の若い方でしたが、仕事が丁寧でいて手早く感心したものです。
おにぎりも私が三個握る間に鈴木さんは五、六個握ってしまうという具合。
御主人にも、店の細々した修繕などをお願いすると、気軽に引き受けてくれました。
知り合いの姪御さんにも手伝ってもらったことがありますが、ある時、三、四十人の団体のお客様が急に見えた時のことです。
まだ半分素人の私は途方に暮れてお断りしようかと思いました。
ところが、その娘さんが「大丈夫ですからお受けしましょう」と言ってくれ、全員にお盆を出して対処することができました。
懐石盆が足りない時は、近所に借りに走ったことも懐かしい思い出です。
困ったことといえば帳簿つけもそのひとつでした。
私はどちらかといえばお金の計算には疎かったので、開業してからしばらくの間、大石夫妻が帳簿をつけたり、経理面の面倒をみてくれたものです。
開店して二カ月くらいたった頃でしょうか、ある学校のPTA役員の方々が来店し、お食事の予約をしたいとのこと。
話を聞くと、五十人ほどというので、慌てました。
「ありがたいお話ですがそれだけの人数をもてなすには十分な人手もなく、とても無理です」とお断りすると、なんと「私たちが朝から来て手伝いますから、是非受けて下さい」と言うではありませんか。
それでお受けすることになったのですが、役員さんたちは本当に朝早くから来て手伝ってくれました。
お客様に手伝ってもらうなど、まさに始めたばかりの未熟な店ならではのエピソードだと思います。
仕事が仕事を教えてくれる
お客様の声を参考にして、工夫を重ねるうちに、料理についてもおにぎりと精進揚げのメニューから少しずつ種類が増えてきました。
こうしておおぜいの方に助けられながら、何とか店は毎日営業を続けていきました。この店は従業員やお客様に育てられ、そういう方々と一緒に歩んできたといっても過言ではありません。
私一人で始めた小さな店が、だんだん北鎌倉のこの地で根付いていくようで、うれしくもありました。
そして、綱渡りのように毎日をこなしていくうちに、「できない」と言ってしまったらそれきりだっただろうことが、「できない」と言わないで一所懸命取り組むことでできてしまう力。
どんなことも諦めず経験を積むうちに可能性が広がっていくことを実感するようになりました。
仕事に教えられたといいましょうか。
今でも、私の口癖は「一生懸命やっていれば仕事が仕事を教えてくれるもの」。
長年変わらない私の、そして『鉢の木』の仕事の精神といえるかもしれません。
石の上にも三年
ちょうどその頃、鎌倉在住の作家・永井路子さんがたまたまお店にいらしたことがあり、『鉢の木』を気に入ってくれたようで、永井さんの紹介で東京のテレビ局が取材に来ました。
放映された内容は、まず店の正面が大きく映し出され、続けて、当店の料理が画面に出ると、永井さんがそこにコメントを加えるというものでした。
「このかぼちゃ、おいしかったのよ」
と永井さんが誉めてくださったかぼちゃの煮物も、私にしたらごく普通に煮たものなのですが、その素朴さがかえってよかったのかもしれません。
このテレビ放映の後、「テレビを観て」と言って足を運んでくださったお客様がずいぶんあり、売り上げも増えたものでした。
しかし、いい日ばかりではありません。
どんな商売も波のあるもの、私の店もぱったりと客足が途絶えたことが何回もありました。
商売の閑散期は二八といわれる通り、特に夏真っ盛りの暑い日は客足が遠のきがち。こんな時はとにかくあせってもだめ。じっと我慢するしかありません。
大阪商人の言葉「商いは飽きない」とはうまいことを言ったものです。
暇だからと放り出してはだめ、飽きたらだめ。
暇な時は暇なりに工夫して過ごし、またお客様が来る時を待つのです。
新しい料理を考案したり、お土産用に店先に並べるお手玉やろうけつ染めの制作に精を出しました。
こうして、商売の雨の日も晴れの日も経験していくうちに、この商売でやっていけると自信が持てるようになったのは、開店して三年目の頃だったと思います。
昔から「石の上にも三年」と言いますが、本当にその通り。
多い時には一日に四百人ものお客様がいらしたこともありました。
その時の忙しさといったら、この小さな店に入れ替わり立ち替わりお客様がひっきりなしにお出でになり、私も店の者たちも一日中立ちっぱなしで食事をする間もありませんでした。
それでも、お客様の応対をしている時は疲れを感じることもなく、動きづくめです。
あのころの奮闘ぶりを思い起こすと、我ながら、若かったな、よくやったな、と今でも感心するほどです。
そうして、一度来てくださったお客様が次のお客様を連れて来て下さるようになり、年々店は繁盛していきました。
店の成長、息子の成長
ずっと経理の面を見ていただいた大石さんの勧めもあって、昭和四十四年四月、店を有限会社『鉢の木』として設立し、私が社長に就任しました。
五年目でここまでになったことに感慨もひとしお、と同時に、社長という肩書きがずっしり重くもありました。
しかし、こうして法人化したことで、「これでずっとやっていく」という決意を新たにもした身の引き締まるような思いをよく覚えています。
小学生だった息子も高校生になっていました。
母親の私はずっと働きづめで、息子には寂しい思いをさせてばかりだったことでしょう。朝は六時頃から夜は七時、八時まで店で働くばかり、学校の父母会などにもほとんど出られませんでした。
でも、食べていくのに必死で始めた仕事ですし、必死で働いた甲斐があって店は会社組織にまでなりました。
経営者になると、お客様の信頼を得ることはもちろん大事ですが、加えて従業員への責任もあり、体がいくつあっても足りないほどです。
頭の中は絶えず店のことでいっぱい。
昼間、店で気にかかることがあると、夜中にふっと目が覚めてそのことを考えてしまいます。
何日もの間、天ぷらにするおもしろい材料はないかなと思っていたのが、ふと、寝床に入ってから、タンポポはどうだろうと思いついて起き出してメモを取ることもあります。
そんなふうに、睡眠時間が縮まるのもしょっちゅう。二、三時間の眠りを取って、朝起きるとすぐにその日の献立の下ごしらえにかかります。
それでも、私の働く姿を見て育った息子は、多感な時期も大きく道をはずすことなく、成長してくれました。
息子は大学卒業後、自らの意志でこの店の後継者の道を選びました。
当時、うちの板前として働いていた射庭武治さんの紹介で、京都・岡崎の『美濃吉』さんでの修行を経て、『鉢の木』に入りました。
それからは経営の面でも力がつき、時代の波にも乗って、昭和五十四年には北鎌倉駅寄りに支店(現・北鎌倉店)を、平成二年にはさらにその隣に新館を開店するまでになりました。
こうした一連の出店計画から実行までは息子の功労です。
いつのまにかたくましく成長し、経営者としての才覚を著しており、もはや『鉢の木』の経営を支えているのは彼でした。
全容を考えても、企業としての経営力がさらに求められる時期にもなっていました。そこで、平成四年、息子が社長に就任、私は会長職に退いたのです。
それでも、相変わらず私は毎日出勤しています。
店で働いている時がいちばん楽しいのです。
いつまでも働ける健康に感謝、仕事を通じて恵まれたたくさんの出会いにも感謝するばかりです。
連載 第二章を楽しみにしてください
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