結局ずっと変われないでいる
書くほどの近況がない。
今読んでいる本は「日本人はなぜ無宗教なのか」という本なのだけど、そこに「(昔の)日本では善悪どちらも尋常じゃないものは忌み嫌う感覚があった」「だから尋常じゃない(唯一無二的な、カリスマ的な)唯一神を信じる感覚もなかったのでは」とあった(まだ読み途中なので結論では話が変わっているかもしれないが、今読んでいるところにはこの説が載ってた)。
その尋常さ平凡さを好む感覚からすると、今の私の生活は幸せかもしれない。
これといって善いことも悪いことも、つまり記録に残しておくようなことが、ない。
私自身、躁鬱の波がない、その代わり楽しいことも嬉しいこともない抑えられた人生を歩めるならそれだけでありがたいと思っていたし、思おうとしているし、調子が悪くなるとそう思うのだが、今は安定しているので「なんかこれでいいのかな、もっとやりようがあるんじゃないか」って思う気持ちもある。空虚なんじゃないかなって。
私はやはり人といるのに向いていないし性質的に人をあまり(他の人のようには)必要としないようなので、一人で生きていくのがいいと思うのだけど、そうすると尚更「私ってなんも成してないしなんも成さないんだろうな」という考えに至る。
一人でちっちゃな消費をしてそれを何かに還元するでもなく死ぬんだろうなあって。
アドラー的には消費をしている時点で、つまり生きている時点で、それがどんなに小さなものであろうと人の役に立っているのであり、共同体の一員たることなのだとのことだけど、そんなちっちゃな役割で存在の罪悪感を打ち消せるわけもない。
そもそも私別にアドラーに感銘を受けているわけじゃないし。
今の「これでいいのかな」は私自身が思っているというよりは周りに思わされている「これでいいのかな」だ。
思うに、私自身は別に成長しなくていいと思っている。でも社会や環境(特に仕事)が成長しろ、何かを成せ、生産性を上げろと言ってくる。それができないやつは価値がないと言って追い詰めてくる。それを内面化してしまい、私を社会の目から断罪する私ができてしまって、「これでいいのかな」と思っている。
この目から逃れるには資本主義から下りる必要があり、私程度の能力しかないやつにはそれは無理なので、結局折り合いをつけて資本主義とやっていくしかない。
内面化しなきゃいいじゃないかと思うだろうが、それができるなら苦労してない。私は人の期待に応えようとしてしまう性分なのかもしれない。損だね。
解毒してきたので、昔のように「言われていないことを先回りしてやらなければと強迫的に思う」ことは少なくなったのだけど、それでもまだ人の期待に応えなきゃという気持ちが残っているんだろうな。それこそ課題の分離ができていない。アドラー。
やっぱり社会に迎合していないと爪弾きに遭って苦しんで死ぬんじゃないかという恐怖がある。だから人と関わりを持たない自分が怖くなるし、仕事ができない自分も怖いし、生産性のないことばかりしている自分も怖い。
私は社会の懐の深さも理不尽さも恐ろしさもまだ知らないように思う。知らないのに怯えている。知っても多分怯える。
結局生きるのが怖いということだ。
自分にこの社会を生きるだけの力があると思えない。
この歳まで生きてきたのに自分を信用できない。全てたまたま運が良かったからとか、人や属性によって与えられたもののような気がする。全て私の力ではないような気がする。
躁鬱が寛解してから私は何もしてきてなくて、特徴がない人生を送っている。それでいいと思うのにそれじゃあ危ないと思ってしまう。社会で自分の力で生きていける気がしないから。堂々巡りだな。
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