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私の妊活時系列〜2020年から2024年

今年も目まぐるしく年の瀬を迎えてしまった。気づけば来年で私たちは結婚5年目、理想では子供は2人、3人目を計画中。しかし現実はそんなに甘くはなかった。一人どころか当初自分の思い描いていた家族計画にかすりもしない現実の中に日々生きている。

不妊治療はトラウマ。感情のジェットコースター。人生最大の挫折であったこの4年間の経験を記憶が曖昧になる前に一体今まで何をしてきて、経験したかをここに記録していこうと思う。

2020年5月
結婚、30歳だった私はすぐに排卵検査薬を使ったタイミング方で妊活開始。産婦人科医に1年以内に妊娠できなければ不妊治療クリニックへ行くのが目安と勧められ、自分たちでがんばるのは1年と期限を決めた。

2021年12月
不妊治療クリニックへ初診。(アメリカは専門医にかかるまで時間がかかる、9月に予約を入れて3ヶ月待ち)夫婦共に全ての検査をクリア、原因不明不妊の可能性が高いと診断。原因不明の場合、毎月の自然妊娠率は3%以下と言われたのが衝撃的だった。

2022年1月
年始ごろから体調不良になる。当初は妊活のストレスで鬱症状かと思っていたが、症状が深刻化し日常生活に支障をきたすようになる。妊活どころではなくなる。自分で調べておそらく甲状線に問題があると疑い甲状腺専門医へ予約。自宅で診断が可能な血液検査キットを2つ試して両方に甲状腺数値の異常が見られた。

2022年4月
甲状腺治療の専門クリニックへ。すぐに橋本病と診断、そして数値的には重症。甲状腺にしこりも見つかり生体検査をすることに。甲状腺刺激ホルモンという体内で甲状腺ホルモンが足りないと高くなる数値が規定の50倍、抗体や炎症を示す数値は規定の約3000倍。到底自然妊娠を望める状態ではなかったことも発覚し、今までの努力と時間はなんだったのかと思う一方で、あまりにも症状が辛かったので初診ですぐに診断が下ったことにはホッとした部分も正直あった。

2022年6月
甲状腺乳頭がんであることが発覚。担当医がその場で採取した甲状腺組織を顕微鏡で見ておそらく悪性の可能性が高いと告げられる。正式な病理検査待ちではあったが、クリニックの外で涙を必死に堪えながら夫に電話したのを鮮明に覚えている。32歳、思い描いていた結婚生活や人生計画がガタガタと崩れていくような思いだった。数日後に病理検査の結果が出てやはり悪性だった。夫には健康な私でなくて申し訳ない気持ちと人生で遠い存在だった『死』は現実的で自分のすぐ近くまでやってきてるような感覚だった。

2022年8月末
フロリダ州にある甲状腺がん専門の外科で甲状腺全摘手術を受けた。全摘後、薬で補っている甲状腺ホルモンの数値が安定するまで経過観察及び回復に専念。定期的に通院、採血、甲状腺がもうないからこれから一生補充ホルモンが手放せなくなる。もう自分の身体は変わってしまった、新しい自分と現実を受け入れて生きて行かなければならないと悟る。

2022年11月
私が若年層であることと腫瘍マーカーの数値が高かったことから再発防止、手術では取りきれないがん細胞をやっつける目的でRadioactive Iodine Treatment(放射線ヨウ素治療)をすることになる。いわゆる飲む放射線治療。治療後は最低半年間妊娠することができない。医師には生殖には影響はないと言われたが、万が一のためにその治療前に体外受精をして胎盤胞を保存することに決定。この頃精神的にはかなり疲弊していた。子ども持つことのスタートラインにも立てられない現状と先の知れない人生に恐怖心さえ抱いていた。

2023年1月
一回目のIVF。アメリカは基本的に高刺激と言われる方法のみを行う。なるべく多くの卵を育て、採卵して胎盤胞まで育てる。33個採卵、ふりかけ受精、3つの胎盤胞を確保。着床前診断は行わないと決定。

2023年4月
放射線ヨウ素治療を受ける。治療後10日ほど家族からも隔離。放射線は胎児への影響があるので最低半年は妊娠厳禁。ここで半年、その後の半年はゆるく妊活を再開し合計約1年を過ごす。

2024年2月
PETスキャンの結果Cancer Free宣言を受ける。

2024年6月
初めての冷凍胚移植。日々の筋肉注射や投薬は採卵期より身体的な負担が多い。初めての妊娠陽性反応が出るも化学流産。34歳にして初めて検査薬の2本線を見た時は一瞬時間が止まったような、信じられない瞬間だった。結局化学流産という結果であったけど、数日だとしても大きな希望を与えてくれた初めての妊娠は何よりも励みになった。

2024年9月
35歳になり二回目の採卵。11個採卵、3つの胎盤胞。
今回は着床前診断をすることを選択。

2024年12月
来年1月からもう一回採卵をする予定。

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