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「心配」は、愛ではなく呪い

おはようございます。note61日目、chiemyです。
ふと、心配されることがしんどかったことを思い出したので、今日はこんな題名です。

前にnoteでもちらっと書いたのですが、うちの母は心配することが大得意で、私の未来を心配しては「こんなに私を心配させるお前はなんて親不孝な娘なんだ」とよく言っていました。言われるから、私は親を心配ばかりさせる、出来の悪い人間のクズなんだ、出来損ないで申し訳ないなぁと純粋に思っていました。

だから、お母さんの気に入る娘になろうと、私は本当の自分を押し殺して、社会的にも経済的にも道徳的にも、他人から認められる自分になろうと頑張っていました。別人になろうと努力しました。なので、当時の私は、誰から見ても娘の鏡のような娘だったと思います。めちゃくちゃ真面目に生きていましたからね! それでも繰り返し母は私に不満をぶつけていたので、そのうち「私がクズなのではなく、母の感じている将来に対する漠然とした不安を、娘に投影して発散しているだけなのでは?これ、お母さんの心配に付き合って振り回されてる私って正真正銘バカみたいだな。振り回されるのやめよう。」と思えるようになりました。

私の出来が悪いから母が心配するのではなく、母の心が不安に満ちているから、私の未来を勝手に悲観的に捉えて、それを娘のせいにしてしまうだけなのです。しかもそれを、愛故にしてるんだよ。怖いよね。お母さんそれ、完全に逆効果だよ。お母さんのそれ、愛じゃなくて呪いだよって、言ってあげたくなります。(怖くて絶対言えないけど)

でも、愛だと勘違いしたまま、子どもを呪ってるお母さんって、うちの母だけじゃないですよね。まわりを見渡してみると「わぁ、いっぱいいるなぁ、多いなぁ」って思います。

 心配。
「心を配る」「心配り」と書いて「心配」。
心配りといえば、相手の気持ちや状態に意識を向けて、観察して様子を伺うことなので、心配って本来はそういう「あなたのことをずっと見ているよ」って意味の、優しい日本語だったのかなとなんとなく思いました。でも今は、逆の意味になっちゃってる。心配だから相手の行動を阻んだり、やりたくないことを強制させたり。それって、している人は愛だと思っていても、されている方は窒息しそうなくらい苦しいです。

当時の自分を思い出すと、私の心は、檻に入れられて、首輪でつながれて、足枷をされていた。それは、母の心配によって、そうされていたと思う。心配は、子どもの心を殺す呪いです。子どもを自分好みに矯正しようとする呪い。

今、子育て中の母さんたちには、うちの母みたいになってほしくないなぁって思う。どうか、子どもを心配しないでほしい。心配して、自分の子どもの人生に口出したり手出ししたり、行きたくない塾に行かせたり、行きたくない学校に通わせたり、したくない習い事をさせたりしないでほしい。自分の子なら大丈夫、自分で選んで、自分で決めて、自分出歩いていけるって、信じてほしい。

心配するって「どうせ私の子どもは、自分の人生を自分で決める力がない。そんなことできるわけない。私がかわりにやってあげなくてはいけない。」って思ってるのと同じだから。信じてないのと同じだから。お母さんに信じてもらえないと、子どもの心は、えぐれるように傷を負うから。

あなたの子どもなんだから、大丈夫だから。自分の子どもを信じて、口や手を出さずにただ見ていてあげてほしい。ずっと見ていてあげてほしい。お母さんの視線は、子どもの世界を無限に広げると思う。それが一番、子どもが望んでいることだって思う。心を自由にしてあげてほしいな。

それでは、今日のnoteは今までで一番、脈絡なく、言葉を選ばず、心のままに文字を書きました。ちょっと勇気を出した!笑

またね。

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