無害な人
私はこれまで様々なコミュニティーに身を置いてきました。それは生きていればどんな人でも様々なコミュニティーに身を置いていくことと同じです。そしてそれらに共通して言えることは『風のような印象』を与えて去って行ったということです。
ある人にはこう言われました。「里見さんは風の様だったなぁ」、またある人には「さとちゃんは無害だからいいね〜」と。
ではなぜ私は無害なのか、またそう見えるのか?それは私が勝利というものにおおよそ関心を示しにくい性格だからではないだろうかと思うのです。加えて敗北することにもあまり興味がありません。そうなりますと勝利や敗北に興味関心が強い人であればあるほど、私の様な人間は蚊帳の外、つまり無害という位置付けになるのです。
私はそれがいいと思っています。マウントの取り合いやコミュニティー内での政治ゲーム、そういったものに巻きとられてしまっては、せっかくの人生がもったいない、そう考えているのです。もちろんこれは価値観の問題ですから、そういったことに命を燃やすことこそが価値だという方々もたくさんいらっしゃることは存じております。ですので火の様に燃えたり、山の様にどっかと腰を下ろしたり、水の様にたゆたいながら過ごしたり……それらも人生の使い方だと思います。ただ私の人生は、私に関わってくださった方々の前を吹き抜ける、一迅の風の様でありたいと、そう思うのです。
様々なコミュニティーにおいて私に関わってくださった全ての人は『私の人生』という時間の前を一時期通り過ぎていく風だという認識が私にはあります。浅く関わった人、深く関わった人、いろんな風がありますが、人生の一時期を吹き抜ける風であることに変わりはないのです。こうしてお互いの人生の一時期を、お互いがそれぞれに吹き抜ける風であると感じることができれば、人生を苦しいと感じている方々も、ほんの少しだけふわっと苦しみが軽減されるのではないかと、そんな淡い想いも抱いているのです。
例:
曽祖母は私が産まれた時には既に私の前を吹いていて、十数年後に吹き抜けていった風。祖父も既に吹いていましたが吹き抜けるまでに更に20年ほどかかりました。友人知人パートナーも彩り豊かに吹き抜けて行っています。逆に、曽祖母という風の最後の十数年間を私という風が吹き添いましたし、祖父という風の後半の30年ほどは私という風も吹きました。そうして、いずれは私も最後の風として誰かの前を吹き抜けて、吹き終えるのです。
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