「ふるさとは遠きにありて思うもの」田舎のマイルドヤンキーの幸福
「ふるさとは遠きにありて思うもの」
詩の作者は、この詩を読んだとき、まさに郷里の金沢にいた。
金沢にいて、ふるさとの金沢にはもう帰るまい、東京で乞食になって野垂れ死んだとしても、もう戻って来るまい、と決断したのだという。
私は、田舎のマイルドヤンキーになれなかった。
昨日観た、岡田斗司夫さんのYouTube動画(元ネタは橘玲さんの著書)で、幸福のインフラは、富、仕事、友達だという話があった。
バッサリ意訳して話すけど、
人間の幸福の基盤は3つあり、それは
自由、自己実現、共同体=絆
そして、その自由を成立させる土台が、金融資産。富。
自己実現を成立させる土台が、職業、仕事。
共同体=絆…所属の欲求ですね、これが友達。
だから、富、仕事、友達が、幸福ってものの要素なんだって話で、もうちょっとだけ補足すると、
(1)富…金融資産や不動産、自動でお金が入ってくる権利収入など資産。
(2)仕事…自分が働くことで収入が入ってくること。
(3)友達・家族…人間関係。
そして、人は、(1)~(3)全部持っている人…①
このうちどれか二つを持っている人…②
このうちどれか一つを持っている人…③
まったくどれも持っていない人…④
理屈でいえば、こういう四つの段があり…8種類の人がいる。
ただし全部持っている人は、理念上の存在で、地球上に「そんな奴ぁいねぇ」というのが、橘玲さんの見解。「そんな奴ぁいねぇ」んだけど、あえて名付けるなら、この人は「超充」
次に、②の富と仕事と友達、このうち二つを持っている人は、次の3パターンが考えられる。
富と仕事を持っている人…金持ち(笑)
富と友達を持っている人…旦那
仕事と友達を持っている人…リア充
次に、このうちどれか一つを持っている人は、次の3パターン。
富を持っている人…退職者
仕事を持っている人…ソロ充
友達を持っている人…プア充
この、最後の「友達」を持っている人の好例が、「田舎のマイルドヤンキー」
このプア充、田舎のマイルドヤンキーの好例を、私は創価学会員だと思う。
所属コミュニティがあり、友達や友達に準じる人が多く、
仕事についても「●●ちゃんの職場、人間関係いいらしーよー」「●●さんが、仕事手伝ってくれる人探してたよー」「●●さんの家の屋根が雨漏りして大変なんだってー」と世話しあい、
遊びに行くのも一緒、子どもの進学先も一緒、一緒、一緒…
ただし、ちょっとでも、集団の輪から外れることをして、仲間から疎外されると、そこで生活するのも途端に困難になる。
友達に対する依存度が高ければ高いほど。
すべて持っていない人の例も、私は知っている。
先日ニュースで見た、都会のアパートで、仲良く、穏やかに暮らし、餓死した母娘。
どこにも所属せず、誰にも泣きつかず、静かに、ひっそりと死んでいく人たち。
この層を、「貧困」という。
田舎のマイルドヤンキーが友達を失うと、この段階にたやすく陥る。だから、田舎のマイルドヤンキーは、友達を失くさないために、割と必死だ。
クラスのいじめられっ子が、なんとか居場所を失わないように、周囲におもねる姿にも似ている。
学校でいじめられて自殺する子が、ほかの逃げ道をなぜ見つけられなかったか。たかが学校。辞めたっていいのに、なぜ命を絶つほうを選んでしまうか。
選択肢がないからだ。
田舎のマイルドヤンキーの群れになじめず出てきた人間は、それを知っている。
田舎になじめずに、都会で別のマイルドヤンキーの群れに所属した親を持つ人の子どもが、おそらく、いじめの格好のターゲットになるんだろうと思う。
親は故郷に帰れない(逃げ場がない。生きるのに必死)
子どもは、親の余裕のなさ、今の場所に必死にしがみついていることを、察している。だから、心配かけまいと無理をする。
人間は社会的動物で、所属感というものなしで生きるのは、結構きつい。
この表で、次にきついのは、「退職者」だろう。
所属がない。お金にしがみつくしかない。
別の動画で、岡田さんが、「金持ちの高齢者の家のテレビは音が大きい」という話をしていた。
友達がいないから、お金を何億も貯められた。
でも、誰も一緒にいてくれないから、自分の耳が遠くなったことに気が付かない。
誰も指摘してくれない。
一人ででかいテレビを見て、日がな一日。お金以外に、自分を守ってくれる人がいないというさみしさ、辛さ。癒してくれるのはテレビだけ。
まさに退職者(富だけがある人)だ。
退職者と、プア充は、きっとどっちも、ソロ充が羨ましくてたまらない。
だから、お金をたっぷり貯めこんでも、爺さんたちは引退したがらない。それが日本社会の停滞の原因だとつつかれても、退職者になるのが不安だから辞められないのだ。
とまぁ、思うに、この世で人が幸福になろうとす上で、本当の問題は、お金がないことではない。
所属の安心感、共同体、絆。
お金があれば、自分よりお金のない後輩を連れて、飲み歩くことで、所属のない不安感をごまかすことができる(岡田さんが動画の中で例に出している、後輩連れて飲み歩く先輩芸人)
でも、これは本当の安心感には多分、つながってない。
共同体・絆というのは、アドラーが言う通り、「共同体感覚」自分が共同体に貢献している、貢献できているという「貢献感」の中にある。
貢献感を一番得やすいのは「仕事」だ。
だから、金持ちは、十分金持ってるのに、やたら仕事したがるのだ。
そして、私が、いや、私の一家全体に関わる話だが、私たちがマイルドヤンキーになれなかった理由は、仕事があったからだ。
母方は小さな小売りの酒店と、公務員という2つの仕事。
これは、「過剰」だった。
選択肢がないこと、友達に頼らざるを得ないことが、マイルドヤンキーの絆の源泉。私たちは過剰に持ちすぎていたのだ。
母は、田舎になじんでいない自分や自分の家族を、「とても気にしていた」
でも、団塊の世代で、四年制大学を出て、親と同じ公務員になった時点で、マイルドヤンキーの群れに迎え入れられることは、もうありえない。
創価学会に入るという形で、自分らしさと、マイルドヤンキーの群れへの所属を目指したが、本当の意味で群れの一部になることはできなかった。
でも、故郷を離れる決断もできず…。
いっそ本当に仕事に埋没しきってしまえば、田舎から都会に出た黄金の卵たちと同じグループに自分を区分けできたかもしれない。
でも、田舎にとどまってしまった。
疎外感を感じつつ、仕事に生きようにもガラスの天井に阻まれ。
田舎にいて所属感を得ようと思うなら、選択肢を持っていたとしても、それを捨てなくてはならない。
選択肢がある人間に対して、彼らの群れは、穏やかだけどはっきりと一線を引くから。
そもそも選択の自由を知っている人間が、不自由に戻れるわけがない。
自分が郷里に帰れない理由が、動画のおかげでよくわかった。
そして、仕事以外に友達を見つけよう、都会の地元で居心地の良い場所を作ろうと強く思った。
下に下がることができないなら、上に上がるまでだ。
わけのわかんないこと書いて、すんません…
『幸福の資本論』読んでないんで、読みます。
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