人は皆、人生の主役とは言うけれど。
よく、「あなたはあなたの人生の主役なのよ!人は誰もが自分の人生の主役!」なんてことを言ったり、聞いたりもしますが、一体これ、実感を持っている人がどれくらいいるでしょう?
人生のわき役感が強いのは、人生出涸らしの私ら中高年だけでなく、中高生などの若い人もそうらしくて、右にならえ文化に調教されて、中々生きづらそうな人生を生きてるみたい。
私が個人的に、次世代に一番送りたくない「技能」が、日本人の大多数がもってる「空気を読む力」です。
ー
ところで、アドラー心理学を日本に紹介した『嫌われる勇気』では、人生の主役ということについて、面白いことを書いています。
どういうことか、ザっというなら、人は、自分の人生の主役であることは肯定しつつ、同時に、世界(共同体)の一員であらねばならないということです。
その前に大事なことなので、「自己中心的」な人であることと、「自分が世界の主役であること」との違いをはっきりさせましょう。
ー
自己中心的な人に3つある、と『嫌われる勇気』では書いています。
・暴君のようなタイプ…自分の都合しか考えないで、権力や腕力を振るう。
・集団の輪を乱すようなタイプ…単独行動を好んだり、遅刻したり、約束をすっぽかしたりする。
・承認欲求にとらわれている人…人のことを考えているようで、自分のことしか考えていないタイプ。他者に自分がどう見えているかばかり気にかけている人。
これらの自己中心的な人の人物像として、共通点があり、それは、人生の主人公、主役であることと、世界の中心にあることとが区別ができていないってことです。
「わたし」も人生の主役だけど、「あなた」も「あの人」も、それぞれに人生の主役だ。。。ってことが分かってないってこと。
「わたし」も「あなた」も「あの人」も、何人も、世界の主役などではない・・・・ということが分かっていないと、「人生の主役」ではなく、ただの「自己中心的な人」になる。
ー
誰もが、仲間に認められ、どこかに所属していたい、宇宙にただ一人…のような状態になりたくないと思っている。
それは、自己中心的な人も同じ。だからこそ、
嫌われる勇気の続編、『幸せになる勇気』では、愛のタスクという話があります。
最後人は、「わたし」という主語を捨て、「わたしたち」という複数形になる。
自分への執着を卒業する。それが最終的な人間の成長した姿として描かれています。
自己中なんかサッサと捨てろ!レベルが低い!
愛する人を見つけて、「わたし」を卒業し、パートナーと「わたしたち」で生きろ!
と。
その時、私たちは自分の人生の主人公という座からもおりています。
自分の人生ではなく、「わたしたち」の人生を生きているからです。