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ヘイトは「遡及殺人」「トラウマ遡及入力」=毎年3万の自殺者に見限られている私たち市民社会=

ヘイトは遡及殺人、トラウマの遡及入力もいいところなんだよ、と思う。
それを過去にトラウマや暴力被害をもった人たちが踊らされて自分たちの被害性ばかりを強調するってどうよ? 自殺者が3万のこの国の生きづらさをそのまま相手に押しつけて作られる弱者の居場所って何?
こういう疑問というか怒りの感情すら沸いてくるのが、一部の女性活動家たちだ。あれが市井のオバサンたちなんだとすれば教養の在り方がおかしい。性暴力の被害者だからという被害者ヒエラルキーを持ち得たために、その葵のご紋で相手の言い分を聞かないという繰り返しに正直がっかりした。


トランス・ウーマンたちへミソジニストと決めつけて女性スペースの会など自分の居場所作りを期待した女性たちは、母親の子ども達へのグルーミングという問題発生には一斉に目をそらすか発言しなくなる。問題は性のグルーミングや商品化・搾取だというのであれば、相手が息子であろうが娘であろうが問題なわけで、自分の子どもを歪曲させる家庭教育などあってはならない。明日の主権者を育てるのが親だからだ。
人間存在を記号化させ問題を矮小化させ、性へ目覚める成長の時期を狙い澄ませて自分の性欲処理の玩具に仕立ててしまったその行動は、特殊特別の世界の問題であって、女性が対象ではないなら男性は女性と同じ立場を味わうべきである、という主張があったとすれば、それはいじめ社会の奴隷根性と何ら変わらないではないか。同じ立場・同じ地獄を味わったから平等だというのであれば奴隷の身分を思い知らせてやるという上からの体制を上塗りしていることと何ら変わらない。そこから新しい階級視座は生まれる余地はないだろう。
トイレや公衆浴場に男性器を持った人間がうろちょろ入り込もうとするのも変質者の所業だということも含めて、聖域無しに認める必要がある。

近親相姦を商品化されたAVを批判し商品化されたのというけれども、現実に起きた素材を取り上げてセックスファンタジーを欲望にねじ曲げた下品な創作にすぎない。だが、最初に出会う成熟した人間として、最初の言葉教師として母親の口まねもするのが子ども達だ。子どもはオトナに依存しなければ命の維持もできない。だとすれば見分けの付かないオトナが子どもにグルーミングをするその環境すべてが問題なだけであって、商品が作られることと商品があることは問題にはならないはずだ。それを処罰で世の中釣り合わせられるかといえばNOだ。
もっというのなら、女性達の弱い立場を利用して親やオトナ達、社会の暴力も理不尽も押しつけている相手はだれか?といえば言い返せない弱い立場、すなわち子ども達だ。
生まれてすぐの時期、未熟児で与えられる命を無償の愛で支えられ、与えられたはずの愛を信じたいからこそ、もう少し言葉を加えれば、物心つくまで命があった自分は愛を信じたいからこそ子どもはもがく。それを「子どもは親の保護下だ」と階級疎外に追い込むのだろうか?その冷たい神経で人権を語れるんだろうか?

こうした報道が、今この時期にされることは重要。

新聞報道機関までを性の搾取と決めつけて何でも敵の口座に振り込むことに熱心な人たちには、親だって加害性を持ちうる事、被害者ヒエラルキーの本当の頂点は子ども達だということ。だからこそ世界人権宣言で見失いそうになった子どもの人権を国際法で規定し直した歴史があったことを今一度、思い返して欲しい。


話題1:老人ホーム・グループ活動での「和気藹々」のウソ

「和気藹々」がうたい文句の集団(仲良し倶楽部)ってうわさ話とかげぐちと虐めでリーダー格の言う事しかきけない集まりだって気づかない?お眼鏡に適わない人間を排除し、その人物がいなくなると次に入るのは誰かと恐れに満ちてうわさ話とかげぐち、延々続く強者の演説っとお追従じゃん。

どんな人でも入ってくると最初はぎょっとするかもしれないけど距離感が分かると、その人達のやり方として認め、つきあい方をみんながそれぞれ考えるように変わる。相手への敬意と尊重を失わないことが貫ける人間が一人いるだけで良心と良識のある人間が揃っているのであればがらりと変わっていく。

平等と公平という概念が言われて久しいけれども、なにかどこか、それを「特権」「特区」を作れと言っている利権集団に滑っていないかと。言ってもたぶん凝り固まったら周りが俯瞰的に見えなくなるということも人間の限界だろうけれども。

話題2:機能不全家族・群れはたった一人が変わると変化する(変化しないのは集団の「組織化」の問題)

機能不全家族の問題はたった一人誰かが変われば変わる。誰とは決まっていない。それがたとえば支配的な父親の死だったかもしれない。娘や息子の人間奪還かもしれない。それぞればらばらに問題鼓動を繰り返していたはずの集まりが変化する。不思議なことだ。 均質・均一からは抑圧と支配しか生まれない。
これは教職をやってきた人間目線ではショッキングなことだ。だけど、そのショックはカリキュラムとして作った定着目標について「いつまでに仕上げるか」という期日ありきの教育に滑っていた自分に気づかされたからだ。学校の暦がある以上は時間に限られて授業や特別活動は編成されているし、その一回一回での授業にも到達目標・定着事項を設定して臨んでいる。そのことでシステムとしての教育活動で一定程度の集団の学習効果が保障されてもいるわけだけど、人間は顔付や背丈や性格の特徴があるようにそれぞれ違う物だ。成長のスピードや成長の様式だって学習の得手不得手や育っていく環境で違いがある。徐々に家庭への依存から地域社会への依存度が上がり、徐々に社会の中での個に育って行く。
言語一つとってもそうだ。アー・・・マンマン・・としかいえなかった赤ん坊は母親や父親、兄や姉や祖父母の口まね声まねをしながらあっという間に母語をみにつける。母語は集団的社会的な存在としての自分の種となり思考や経験を組織化させていく事に寄与しながら、ワタシという存在の内側に母親なら母親、兄や姉なら兄や姉という存在が自分にもたらす関わり方を学習するようになる。食餌行動に関与してくれたり、笑いやよろこびを運んでくれたり、必ず抱き上げて愛情をつたえようとしてくれたり、ただ声だけをかけて去って行ったり・・・。その「関わり方」が自然と自他の最初の距離感覚をはぐくんで成長を遂げていくようになる。人間は社会的な存在なのだ。
パブロフはここで言語による認識の系と行動の系についてを第一信号と第二信号という形で説明をあたえた。単なる刺激と反応による条件反射学説の段階から後年第二信号系理論を生んでいったのは「直接行動の中での刺激と反応」と「言語による認識と反応」というものは別モノではないという事を解明しようとした所がスゴい。言葉には言霊のような実体が存在する式のそれまでの形式論理一辺倒だった言語や芸術の理解は神秘の領域の出来事のように言われ、そこにはメスを入れてはならない式の議論が出てくる。社会的存在としてわたしが存在し、わたしの中に成長のプロセスの中であらゆる人の言葉や喜怒哀楽にあふれた態度や行動や自分への関与が体験として組織化されていく。その際の体験を組織化させていくために場面の条件によって自分にとってどういう経験だったのか、どう受け止めるのかを本能的にかぎ分けていくわけだ。同時にそれは、言語で組織化された、たとえば報道や歴史書などの記録、あるいは文学のような創作を通して、自分の行動と体験以外の経験を言語を通して知り、言語による自分の実体験の再組織化=体験に準じる体験を言葉によるイメージぐるみの認識を通して変わる。

話題3:「梅干し」体験=直接体験と言語による体験(準体験)と=


梅干し、という物体が、「うめぼし」という音声、「梅干し」「うめぼし」という文字(記号)で記録されていたものが、梅干しを食べる、梅干しの匂いを嗅ぐ、といった過去の体験が「わたしの経験」として「梅干し体験」が結んだ時に、梅干しを食べてもいないのに、梅干しを食べたと同等の条件反射が起きる。唾液がじゅわーっと出てきてクチの中が酸っぱく感じられるようになるのは、「梅干し」という文字「うめぼし」という音声つまり記号(’マーク)が信号(シグナル)として機能したからに他ならない。食べたこともない人間にこの反応は起こりえない。知識が知識として音声と文字と図柄をアタマで切り結ぶだけであり、食生活には結びついていない。体験や第二信号として認識がされるにはパーソナルな経験が総動員され豊かに「わたし」の中に色々な人や生活で持ち込まれ自分の実感ぐるみで出会うことができた「わたしたち」の経験として根をはり感情ぐるみの経験と変わっていくわけだ。だから、忘れないし、言葉や文章を読んだだけでも実体験と変わらない、喜怒哀楽の反応を伴うように変わっていく。だからこそ共通信号としての言語を大切にすることは単に読み書きができる、という問題ではなく、認識機能を高めるという意味でも、民族体験の総決算として文化へ反映をさせる意味でも、母語は母国語としての意味も持ち合わせる。国家語だからダメという形式論理では民族間差別や支配抑圧のような関係と構造で生まれてくる文化、LANDやHOME TOWNという意味での故郷、くに、というもの。他者を虐げたり過ちも犯すNationやStateという存在も言葉に託した思考の形式が与えられることで共通の理解と共通の信号として一定の思考が運ばれることになる。だから概念的な認識・概念的理解を加速し共通化できる論理と論理的思考を導くためのトレーニングが高度化社会の中で必要になってはきた。しかし、それを6/3/3式の時間軸に全員一律に当てはめて数字で到達度を示そうとする制度自体が無理があるわけだ。その無理を「見て見ぬふり」をしてきた教師としての自分を恥じる。

話題4:組織より人の時代=まだまだ属人化の時代だからこそ



僕のHIV感染発覚を聞いた瞬間に「性病を男性からうつされた人物を男子校という場で教壇にあることを母親という存在は赦そうとしない。それを再教育しても3年で親も子どもも入れ替わる学校では徒労の連続にすぎない」と言い放った校長によって、僕は教職から同一法人の大学図書館へ職種を転換した人間である。
彼は自分の高校での恩師でもあったし、日本共産党の地域活動でリーダー的な存在でもあった。でも、この瞬間にこの学校というムラ社会の限界と同時に彼らの持つ「組織論」の限界、そして恩師からの裏切りを感じたのだ。「折角入れてやったのに」という態度をあからさまにした。「なんだご恩と奉公か」という反発以外を与えなかった。
一方で、当時組織改革の名の下にトップダウンを敷いていた学園理事長は「この人の職業を奪ってはならない。教職にあったのならきっと研究や教育支援の場でも良い仕事をするはずだから、図書館や研究所に近い所で仕事をしてもらう方がいい」と校長に即断即決で「総長から理事会で職種転換を説明する」と伝えたという。トレーニングされたガリガリの経営主義者の方が、観念先行の科学的社会主義者よりも一歩先んじた瞬間である。だがこの法人の経営改革が大成功をおさめたのかと言えばNOで、20年経ってみてYESマンと上の顔色ばかり見て波風立てない人間ばかりになった組織が付け焼き刃の看板ばかり掲げてあっぷあっぷしている。人を減らす事を先にやったから実働部隊がいないばかりかアイデアの和泉が枯渇した人間しかいないから余計に干上がっている。他の組織は教学改革を先にやる一方で組織員の人数構成を変えなかったばかりか人を増やした上で財政基盤を整えた。だからまだ人を削る余地もある。決定的などん詰まりになっている。僕の母校をどうしてくれる!と怒りを禁じ得ない。だが経営改革を通しながら様々なメッセージから見えてくる理念と危機感の共有などは、ペーパーテストでは力は発揮していないでも実感ぐるみで租借し自分の学んできた知識を総動員して理解していったから、最も理解する一人だと僕は自負している。だからといおうか。「アナタの下書き、ちょっと新しい言い回しに変えておいたから」とお茶目にニコっと笑って文案やアイデアが「お手伝い」として機能できたのだと僕は自負している。たとえ思想信条などは違っていても仲良くできるし尊敬している相手でもあるから職業人組織人として奉仕をするという意味も意義も楽しさも教えてもらえた。右翼・同友会系の先生方とも一緒に仕事し面白く仕事をさせてもらえたのは本当に良かったし、そこで語られた戦略論も分析手法も解決法に用いられるツールもすべて有用で有効に使える物だし僕自身にも役に立った。

教え子はいつまでも教え子ではない。日本共産党と科学的社会主義の理念はとても崇高な物を掲げているし、共感するところも多い。だが末端の人間達があまりにかけ離れた存在ばかりで、途上なのだ。だけど、今ではそれだからこそ民主主義社会は面白いと思えるように変わったので、支持政党を変えることはないが、既存勢力に期待もしないかわりに否定もしない、という今のスタンスは、わたしと出会い、面白いヤツだと思って関わり、作りあげてくれた存在が左翼だけではないということだ。
「教条」でも「ミッション」でも「思想信条」でもない、志通じる「個人」のネットワークづくりが急務という位に、まだイデオロギーもアイデンティティも未熟な段階の社会に私たちは生きている、というこことだ。
成熟の度を深めているヨーロッパや過度の武力中心の物質社会を反省しはじめたアメリカとは立脚している基盤が脆弱すぎる。ゆめゆめ安易に比較は論じづらいが、ヨーロッパが民主主義のプロセスと議論を経て揺らがない所まで煮詰めた原理原則は謙虚に徹底的に学ぶ必要がある。

教職を離れたことで、逆に、生徒や学生と教員集団との応酬が面白いぐらい俯瞰的に見られるようになっていった。同時に教職免許は持っていても社会性・社会経験値を持たないノンポリ教師ほど危険な存在はないなと。昔はそれでも組合活動での共同学習会が放課後あったり、団体交渉があったり、様々な職種にある弱者の言葉を聞いて学ぶ機会があった。さらに信じるもののために政治や思想活動のための勉強会、自分を高めようとする読書会やサークルや民間教育団体で研鑽している人たちがまだあった。今個々人の分断と記号化でどれだけの民間教育団体やサークルや学会がつぶれているだろう。唯一学会はあるようだけれども、である。そこに日本の場合ムラ社会化と異分子排除の体質が色濃くでてしまい「わたしの中のわたしたち」の問題として考えられない人間が増えてきてしまったのだろうとも思う。

型に填められて自分を失ってはなるものかという思春期ならではの反抗をねじ伏せることばかりに血道をあげて時間をすごしていたら、せっかく発達するはずの言語による認識も「怨み」と「報復」という野生のままつまり暴力による暴力の応酬以外が育たないではないか?

話題5: 文字ヅラが同じでも中味がまったく違う自助会プログラム=一括りにしたら間違いを犯す=

僕は依存症の治療を進めていった後、自助グループのプログラムを進めた。アルコホリックの回復プログラムを祖先にもつプログラムだが、決定的にアルコホリックのプログラムと違うのは当事者性が違うということだ。自分は加害者の贖罪を言うだけ言えば良いという立場ではない。加害性と被害性両面を持ちうる存在として両親には向き合わねばならなかった。その怨みの感情について棚卸しをする場面がこのプログラムでは与えられる。棚上げして自分の問題と向き合った以上は、自分と自分を取り巻く問題の本質にむかって棚卸しをし、関係性の中で変えられるものだけは変えようと努力する、そういうプログラムだからだ。

「ああ、アナタが獲得したのはプロテスタンティズムだね。自己犠牲的なところを活かしたんだね」
とある霊能者・占い師さんと談笑してたときワタシをそう言った。

怨みは怨みとして相手に伝える、だけど、それだけで終わらず自分の側にも落ち度や未熟がなかったかと変わっていったことも伝える。最終的に相手につきあいを続けて欲しいのか、もう金輪際関わりたくないと思っているのかも伝える。それが僕らの棚卸しと埋め合わせである。贖罪プログラム糞食らえ、の立場だ。なぜかと言えばアルコールという薬物の力と破壊力で放ってきた暴力や暴言によって分断させられたり傷つけられた被害者でもあり、それらで傷付いた自分たちは避けて通ることができれば良い物の、その抑圧の中で一定の時間過ごさねばならなかったからだ。それは僕という人間が放っていた加害性がゼロではないことも覚悟した上で思っているのだけれども。
自分の経験値のモノサシだけで相手を論じないということも重要だと思う。
尊重し、活かしあってナンボというぐらいに高度化している現代なのだし、グローバルな尺度で物事を要求される時代だから「ここは日本だ」が通用できない時代になってきた。外国との格差があまりに開いているので本当なら棚上げして国内だけに保護主義でいきたいのだが、先進国ヅラしてしまった以上そうはいかない。

ミソジニーやマイノリティ差別以前にニッポン男性中心社会なのだということ


「あれは子ども時代のことだから」でごまかさないで。 性のグルーミングは年齢を選ばない だったら、「女っぽくてキモチワルイ」「アタシより女らしいことが気にくわない」と言い放った女生徒の言葉と態度の暴力、それに追随してご機嫌を取った男生徒の態度の暴力と女子からのグルーミングはどうよ?

そうしたトラウマがあるからトランスウーマンやGAYたちにとって女子とクチを聞く事すら汚らわしいという「刷り込み」を与えたのはまぎれもなく女子本人たちなわけ。ブーメラン現象で自分たちが自分達の言葉で傷をおってなにがミソジニーだっていうの。 自業自得というのならそこでしょ?

そうすると今度は「可哀想な人」大会に仕立てて問題をすり替えようとして、こんどは女性が歴史的にどれだけ虐げられてきたかが始まるわけだけれども、それは男性中心社会に対して発言されねばならず、同時に男性中心社会のおこぼれで細々居場所を与えられてきた赤線や性処理公衆便所としてのハッテン場や風俗街での性の発散としてお持ち帰り逆アナルを要求する変態のはけ口として(ニューハーフ倶楽部でお持ち帰り希望の「自称ノン気男性」の9割が「逆アナル希望」の客だというお話をある風俗業のニューハーフさんが話をしていた。売春防止法に引っかからない、また工事(性別適合手術)を受けていないトランスウーマンに女性ではなく男性役をカネでやらせて自らのクローゼットな性処理を満足させている男性達。そんな「言い訳性処理産業」が実際なわけで、階級疎外というのであれば自らの経済基盤ではない生活のに沿わない自分を演じ続けねばならない事の方が搾取と疎外だろうに。

それでいて、タイプの男とみるや○○様~なんて猫なで声で「推し」だの「おっかけ」だのとストーカーごっこやってみたり。みっともない。 記号化され分断された人たちだから仕方の無いこと。


だからこそ皆で問題やきずは棚上げして、でも、世界人権宣言であまりにオトナばかりだから子どもの人権条約が国際法規で位置づけをし直した。 国連はここから見直しは一度もやっていないし厚生労働省も外務省もここから人権の見直しは一度も後退させてはいない。
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自民党政権が 世界人権宣言の社会権条約を凍結させて世界が大学までの学費を無償化できているのに日本だけできていなかった この問題を民主党政権がキチンと軌道修正した。 その後の自民党政権がやったことは 統一協会を公安当局の危険団体から抹消したことだ。 どこの誰が基本的人権の敵か考えよう。



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