ハームリダクションで変えていく人権=フィリピンの薬物収監者一斉調査・タイの労働法前科2犯までの雇用拒否企業処罰法=民集の前科経歴保護じゃ古すぎ!
これは2018年前後にFaceBookで記載した私の記事へ、AIDS予防啓発活動などで古くから付き合いのある医師たちのコメントを合わせたものである。
<民集(最高裁判所民事判例集)の前科経歴に関する保護>
「前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する」
(民集35巻3号620頁、判時1001号3頁)
前科がある人の過去(つまり前科のあるなし)をみだりに調べたり開示することは、個人の信用を前もって失わせる事になるから、法律上保護に値するべき「利益」である。つまり誰にも知られる必要はない、という理解になります。
これは、最高裁判所の判例=日本社会のベーシックになります。
仲間が就職活動をするときに、履歴書や面接でみだりに過去を喋る必要が無い、という事を説得力をもって言える根拠はこの判例です。もっといえば、民間会社が調べる事はできないし、言う必要がない、むしろこれから作り上げる信頼関係こそ重視しなさい、という裁判所からの心からの応援であることを意味しています。
この判例を知り、理解しておくことはとても重要だと感じたので連絡しました。
さらにこの判決では伊藤裁判官の補足意見がついています。通常補足意見の中には少数意見として多数判決に対する若干の疑義や懸念などが語られるものですが、ここでは多数意見よりもさらに踏み込んで、行政機関などが個人情報収集保管管理にたずさわる場面が今後増えることになるが、それであっても個人のプライバシーと秘密に関する部分は守らねばならないし、その責務が(役所には)ある、という
補強意見として明記されています。
最高裁判例は、社会の判断基準=思想を形作っていくための重要な記録なので、これは、信じてよい判断。むしろこれをないがしろに前科が調べられるようなことでもあれば提訴しても勝ち目がある、ということになります。
下に判決文の抜粋を残して置きます。
前科照会事件に関する最高裁昭和56年4月14日第三小法廷判決1
多数意見
「前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する」
(民集35巻3号620頁、判時1001号3頁)
前科照会事件に関する最高裁昭和56年4月14日第三小法廷判決
伊藤正己裁判官の補足意見
「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであっても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成する」「このことは、私人による公開であっても、国や地方公共団体による公開であっても変わるところはない。国又は地方公共団体においては、行政上の要請など公益上の必要性から個人の情報を収集保管することがますます増大しているのであるが、それと同時に、収集された情報がみだりに公開されてブライバシーが侵害されたりすることのないように情報の管理を厳にする必要も高まっている」「近時、国又は地方公共団体の保管する情報について、それを広く公開すること
に対する要求もつよまってきている。しかし、このことも個人のプライバシーの重要性を減退せしめるものではなく、個人の秘密に属する情報を保管する機関には、プライバシーを侵害しないよう格別に慎重な配慮が求められる」
用語解説
民集:『最高裁判所民事判例集』の略号。
判時:雑誌「判例時報」の略号。1001号3頁目にこの判決全文と判例解説が載っている。
<「NHKニュース」タイの日本企業がエイズ抜き打ち検査実施>
一NHKニュースでとても不愉快になった。
タイの日本企業がこぞって社員への麻薬使用抜き打ち検査を行っているとのこと。
タイの法律では前科が1回までは解雇や雇用を拒むことができない。この水準まで日本や韓国社会は目指さねば本来はいけないのだ。
この抜き打ち検査キットは汗を脱脂綿でふき取り、検査機器へセットするだけ。過去一週間分までは高い精度で麻薬の種類までを特定できるという。
それがどうだ。日本企業は「そもそもこんな連中が(とは言わなかったが)社内にいること自体が問題なので、今後は入社前の健康診断ではじいていきたいと思う」と言い切った(!)
これを聞いていて、日本のAIDS予防啓発運動の中で「検査技師協会」が実施しているメッセージと同じ質のものを感じた。「どんどん検査に引っかかってください!」式のもの。正直うんざりするものだ。
同時に、せっかく世界のHIV陽性者たちが30年積み上げてきた「Access for All」すべての人が治療アクセスできる権利獲得や熊本大の満屋先生が世界中のHIV当事者へ治療薬ライセンスを放棄したプロテアーゼ阻害剤を提供したような、治療こそ予防だというメッセージを踏みにじるぐらい侮辱的な印象を受けた。ましてタイの前科2犯までn雇用拒否事業体の処罰規定はハームリダクションの一環で新設された法律だ。
この動向は日本のハームリダクション関係者の考えている今後のサクセスストーリーそのものが甘っちょろいもののままである現状に鑑みて、今後、暴力的な形で踏みにじられないか、という危惧さえ感じる。検査キットの普及では予防啓発はおろかハームリダクションではなく抜き打ち検査や本人同意を得ないで進める絨毯爆撃のような当事者攻撃である。家庭ごみのプライバシー領域にまで検査をするありとあらゆるアングラ化加速させるだけの非生産的な闘いを助長するだけではないか。
ハームリダクションは当事者の害の軽減を目指す、という概念(思考の形式・考え方)で、方法手段は多種多様でかまわないものだ。その多種多様な手段を通ることで、まわりまわって社会的な害や損失も軽減させられるというものでもあり、とりわけAIDS対策として始められた多くの国が注射針由来HIV感染を減らしただけでなく、薬物事犯の統計を減らす結果も打ち出したのだ。そのエビデンスを踏まえUNAIDSは2009年国際エイズ会議ウィーン
コミットメント宣言で(禁欲抑圧政策の延長にある)「薬物戦争は敗北した」ことを宣言した。検査・拘留・処罰というお決まりのスタイルが社会復帰と再発・再犯の予防までを考えれば、遠回りが過ぎる。使い続けている段階でも少しでも同じことの繰り返しで終わらない。トータルな当事者へのサポートや指導・動機付け技術の付与などのコストを考えたらもっと別のルートの方がずっとローコストでリスクも負担も少ないことを立証させるための全人類的な実験でもある。司法やコミュニティ、治療、教育といった縦割りでなんとかなる類のものではない。あらゆる場面に向けて当事者と共に考えていくという事以外ではないし、これは性感染症としてのアディクション、依存症としてのHIVとして考えても同じことだというだけなのだけれども。(性行動の過激さや関係性に依存するHIV、ノリ・パワーゲームという空気感で感染するAddiction)
自分は女装詩人や藤原良次たちと日本のHIV陽性者ネットワークの素地を作る際の共通メッセージを「治療こそ予防である」という所まで絞り込んでいった。検査は感染事実を知るためのツールであっても予防はできないと断言した。
この当事者発のメッセージの方が正しかったことはAIDS対策研究班の「疫学研究班」がとん挫したことでもわかるだろう。行動変容は当事者としての共感を積み上げていく事でしか起こりえない。現在の行動そのものにはそれに至るだけの何らかの素地や理由があるからだ。たとえ一時期反動が起ころうとも長い道のりの中で必ず問題は解決されながら結果として前進していくものだからだ。
>>>この日のコメントは下記に示す。
Aさん(精神科医):講演会の後で校長先生や、主催団体の代表、役所のお偉いさん等に挨拶として「そういう人がここにだけは出ないようにしましょう」と言われてしまった時のガッカリしてそういうあなたが一番問題ですね。と言ってやりたい悔しさと似ているかしら
Bさん(公衆衛生医・泌尿器科医):同じ思いで見ていました。このような社会をどう変えられるか?次のチャレンジが求められているようですね
びっぐまま(返信):なんだか薬害エイズ以前の当事者コミュニティのまんまだ!という印象を受けてしまいました。日本のAIDSの歴史とダルクやメリノール会30年の歴史がほぼ併行しているわけですけれども、どうしてか共通のメッセージになっていかない。HIVにせよAddictionにせよ当事者参画は行動失敗者による行動変容というメッセージと、当事者は治療・回復の成功者とともにあるべきであるというメッセージによって、治療アクセスと理解と社会の中で回復と成長の環境を保障するだけの寛容の必要を伝えること、誰にでも起こりうるのにスティグマで後から唐辛子を塗りつけるような社会の側の変容もしていかないと自分の言葉と行為が自分を傷つける結果になるのだという差別抑圧の問題、こうした幾つかのポイントを伝えて行く必要がある。その上で行動変容につながるための感染経路・場の雰囲気・関係性に支配を受けない選択をできる対話の能力、ハームリダクションとして絶対不可欠な(その限り世界エイズ会議ウイーンコミットメント宣言に即した形で)ポイントだと僕は思っています。治療こそ予防であると。
<後日>
DARSの討論会でタイ保健省の方々へ日本の傾向について伝える(報道一週間後)「絶対に許さない。公衆衛生政策への妨害である」
DARSという薬物政策と刑事司法、公衆衛生、当事者が集う継続的な勉強会の席へドゥテルテ政権下のフィリピン保健省副大臣、タイ保健省責任者、などがゲスト参加しての充実した回があった。
ドゥテルテ氏就任以来、警察は1500人超を射殺。自警団の関与が疑われる被害は2000人に上る。3万人弱が逮捕され、中毒者75万人以上が出頭した。この異常事態になったが保健省は至極冷静に「政権がやっていることはやっていること。我々は国連を構成する自立国家の一員であり国民の健康で文化的な生活を支えるのが責務である。だから彼ら薬物使用者をこれだけまとまって収監できたということは、彼らの健康状態を知る機会ととらえ、生活面・健康面の調査を一斉一律に実施し実態をしることができた。」なんという人権に根差した行動と発言だろうか。ハッキリと明言していないが、この姿勢こそが国連がコミットメント宣言を繰り返しているハームリダクションの姿勢だ。これにかぶせるようにタイの保健省から「タイでは、2004年からハームリダクションを開始し、前科2犯までは再雇用を妨げてはならないという法律が施行されました」と報告された。
さいごに
「前科登録と犯歴事務」(冨永康雄・日本加除出版・平成24年4訂版)
この本は、犯歴事務に関する手続き論であり、公務員であるところの「彼ら」がきちんと業務遂行をできるための手引書=マニュアルである。
こうした本があるのに、まさか、ではあるが有名無実化されていないか、という疑念さえ浮かんでくる。
まさか安心安全のために条例などを上塗りして、過去を暴き出しやすくしたり、足を引っ張る行動に加担してないか、私たちの良心そのものが問われているようにさえ思うのだ。
犯罪にかかわってしまった人たちの背景はさまざまで、生まれるまえから悪意ある反社会集団として行動している人は実はほとんどいない。生れ落ちてしまったら、むしろ逆に大変な不利益の中で生活をしなければならないはずだからだ。
ちょっと話をすれば、自分の属性で差別・迫害・不利益になることを恐れ、籍を入れずに子供の生活の面倒を見ようと努力している組員さんや幹部さんがいることも私は依存症治療で通った精神科のデイケアで出会った人たちとの対話などを通して知っている。
属性があるから市民としてあらゆる権利をはく奪されても構わないというのは門地や出生で人をラベリングする「世襲」の発想と何ら変わらない。
近代以後の社会であるのであれば、仮に加害・被害の構造があったとしても、加害者も被害者も同じように救済され、市民社会の一員として尊重され祝福されて活躍していけるようになると、テロや反社会活動をする理由がなくなっていくはずで。
西欧賭博がよくて、なんで日本の伝統ゲームの一つである花札やサイコロ賭博などが処罰の対象とされねばならないのかさえ明確に日本の社会は説明できていないのではないか。反社の温床だという理由はゲーム場を開いている人たちの話と営業の仕方の問題であって、ゲームの問題ではない。依存症の病気としての問題と、加害・被害の問題も別である。どこか感情論や今までの慣例・慣習の上にどっかり座って考えることを拒絶しているようであれば、それはもはや科学でも学問でも近代の制度でもないのではないかとさえ思うのだ。
「刑罰に依存しない薬物対策を」 海外の薬物政策に詳しい刑事法学者が日大アメフト部の逮捕騒動に感じる違和感
https://naokoiwanaga.theletter.jp/posts/067e1160-3b4a-11ee-848d-d5dbe2354da2?utm_medium=email&utm_source=newsletter&utm_campaign=067e1160-3b4a-11ee-848d-d5dbe2354da2
https://note.com/8910_bigmama/n/n51f1e937114a