『往復書簡 限界から始まる』がくれたもの
コロナ禍で内省の時間が増え、これまで自分が労働者として生きてきた環境について考えてみた。自分が身を置いてきたのは、バリバリの昭和感あふれる世界。信じられない人も多いかもしれないが、ほんの数年前まで来客には必ず女性がお茶を出していた。その環境にはうっすらと、もやもや、つまり、違和感を感じ続けていたが、世間はこんなものだと自分に言い聞かせ毎日必死で違和感と向き合わないようにしていた。しかし、ふとしたことから大学院に行く事になり、そこは、知識とスキル、プレゼン力やコミュニケーション力に基づく、ジェンダーを超えた平等な競争社会が繰り広げられていた。そこで時間を過ごしてみて、はたと自分が身を置いてきた環境は特殊な世界であり、女性は無能であると洗脳され、決して男性の領域に踏み込まないように、与えられたその枠を出ないように、業務的にも心理的にも功名に仕組まれた世界だったのでは、という思いが止まらなくなってしまった。
このような自分の思いに駆り立てられるように、上野千鶴子氏の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』や鈴木涼美氏の『ニッポンのおじさん』など様々な本を読んでいた頃、この2名共著の本が出版された。それが『往復書簡 限界から始まる』である。
往復書簡の読後感は、まず「癒された」だった。それは何故か?冒頭で述べた「自分がこれまで直視してこなかったが日々感じていた違和感」が2名によって様々なトピック・視点から、これでもかと語り議論しつくされるからである。往復書簡の回を重ねるごとに、2名は痛々しい程に心のうちをさらけ出し自分の思いを語っている。一方で、自分は、そんな違和感を思うこと自体が破滅なのだと考え、その思いから避けてきた。しかし、こうして自分の中の言語化できない思いを誰かの文章によって目にすること、認識すること、それだけでこんなにも癒しになる、というのはこの本で初めて得た大きな発見だった。
様々なテーマで男女や女性同士について語られる本書だが、特に気になったテーマは以下2つである。
「母と娘」
30歳を過ぎた頃から、母とは仕事と結婚のテーマでは話をする度に喧嘩になった。それは恐らく母の生きてきた世代の世界観と自分が身を置く世界観があまりにギャップがあったからだ。母は、就職後2年で結婚し寿退社した。一方、私は職場ではミソジニーにあてられ結婚は魅力的に思えない日々だった。職場で女性は常に補佐役だった。扱われ方は会社によって多少差があるが、重要なのは常に補佐役の領域を出ないこと。男性のプライドを踏みにじらないこと。そんな環境に身を置いて、どうしてプライベートでまで男性に帰属しなければならないのか、と心の底でずっと思ってきた気がする。だから好意を示してくれた男性に対してあてつけのように冷たく接することもあった。いや、ミソジニーにあてられた自分に対する愛情を信じられなかったというべきか。母が歩んできた世界とはあまりに違い、思いが折り合わなくて当然だっただろう。
その後私は大学院に行く機会を得てミソジニーではない世界に身を置き、自分の違和感が正しかったのだ、という確信を得てからは母には少しずつその違和感を冷静に吐露できるようになった。母は理解・共感まではいかないが、少なくとも話を聞いてくれるようになった。
「連帯」
ほんの数年前に比べても、男性・女性共に立場が多様化している。独身であっても、それは未婚・離婚・子あり・子供なしなど様々で、既婚であっても、初婚・再婚・子供あり・子供なしなど様々で、また既婚女性の就業形態も専業主婦・共働き(正社員・パート)など多様である。特に女性に関しては、このそれぞれの立場同志でコミュニティが出来ているように見える。バリキャリ/ゆるキャリ、ママ友などのカテゴライズ言葉がその象徴である。しかし、近年のシスターフッド運動や#Me Too運動が盛り上がる中で、違う立場同志の女性がどう連帯していくのか想像できない、と考えていた。しかし、本書でこの章を読み、立場にとらわれていた自分に気が付いた。この章での上野氏の「女同士は、子どもと家族の話題がなければ話すことがないんじゃないの?とばかなことを言うひともいますが、そんなことを話さなくても、話したいことはいっぱいありました。私の友人の女性たちは、子持ちの既婚者が圧倒的に多かったけれど、わたしには夫の話も子どもの話もめったにしませんでした。~中略~ ある女性など、40年間もつきあっていたのに、連れ合いが亡くなったと聞いて初めて彼女が既婚者だったことを知ったぐらいです。」という言葉に、彼女が友人と育んできた関係性がいかに立場から離れ互いの人間性を尊重したものだったのか、ということに胸を打たれた。確かに、立場にこだわる以上はきっと「人生の成果物のようなもの」の比較のし合いのような気がする。連帯しても、立場から成る連帯は組織であり、本当に取り組むべき課題よりも組織内のヒエラルキーに翻弄されそうである。連帯というテーマを超えて、対人関係について自分が持っていた固定観念や姿勢を揺さぶられる章だった。
このように個別の感想はいろいろとあるのだが、総じて本書は、自分にとって「アウトプット」の機会を与えてくれるものになった。最初は、本書を読み著者達の文章で自分の思いがアウトプットされ癒されるという機会を与えてくれた。その後、幸運にも著者達を交えた本書のオンライン読書会(COTOGOTOBOOKS主催)に参加することができ、自分の思いを自身の口でアウトプットし、著者や参加者達と語り合う機会を与えてくれた。そして今もこうして、改めて自分の思いをまとめてnoteに投稿するという機会を与えてくれている。
上野氏は、本書で「ひとを信じることができるのは信じるに足ると思えるひと達に出会うからです。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。」と述べる。
そして「ひとを信じるに足ると思えるひと達に出会う」ためには、自分の思いを内省しアウトプットすること、それが一歩目になるだろう。今まで自分は思いを直視しアウトプットするということを避けてきたが、「信じるに足ると思えるひと達との出会い」を築いていくためにも、アウトプットしていこうと思う。そのきっかけを与えてくれた本書には感謝が尽きない。