ご無沙汰の抽象
執筆習慣が壊れていた。連休中に家族で出かけた際に1日分落ちてしまい、なし崩し的に週明けも。飲み会だったことは言い訳とはならない。僕の怠惰が原因だ。自分との約束を安易に破ったことは恥ずべきことだね。文字数制限もないんだし、スマホでサクッと打てば良かったのに。
今回の一件で、僕の習性があらわになった。積み上げたもの(ここでいう習慣)が大きいほど、その流れに沿いたい気持ちが相当に強くなる。ただし、一度その積み木が崩れると途端にモラルが低下して、怠惰が前面に押し出される。「めんどくさい」「一回だけなら」「まぁいっか」リカバリーへの気力が湧いてこない。
好調のときではなく、不調のときにこそ人の真価・本質が表出する。普段は「習慣=行動」という具体層に隠されている僕の人格・思考・習性が顔を出す。あらゆる意思決定の根幹として鎮座する抽象的性質である。
この抽象層は制御、改善のハードルが高い。いわゆる「性格を変える」に近いからね。生まれ持っての性質が決定的な差異をもたらすことは間違いないが、予めセットされた場所から全く動けないかと言われれば、そうではないと想像する。
抽象層へアプローチしたければ、具体層の思考、行動を変質させるしかない。それも付け焼き刃ではなく、長期にわたり継続的に。抽象層内でアプローチしようとしても効果は限定的だ。当然だよね、思考を変えようにも、同じ思考の枠組みでの終わりなき堂々巡りが待っている。
巷でよく語られる、人生を変えるには、外部環境を変更することが必要だという言説は、上記理屈に基づけば正しいよね。本人の意気込みは意味をなさない。
年齢を重ねると変化できなくなる要因も同じ理屈だ。抽象層が強固で微動だにしないため、もはや外部からの刺激をもってしても変化は生じ得ない。ゆえに、若者の方が相対的には成長や変化に適している。
最近は具体の波に飲まれていたので、本日以降は抽象の扉を開かないといけないね。日記執筆はまさに具体と抽象の往復思考。頭のチューニングをしなければ。
抽象・具体は持ちつ持たれつ。どちらを欠いても上手くはいかない。