あの頃の僕を見る僕

就寝は23時50分、起床は7時。悪化していた体調とリズムが少し改善したかな。ここ1週で急激に早朝の気温が下がった。代謝も落ちてくる季節、体重管理もシビアにいかなければね。

今日の朝の通勤時、過去のnote執筆記事へのいいねを知らせるメールを受信した。直近ではなく、おそらく1か月以上前の日記かな。そのメールを確認した流れで、記事を目にしたのだが、その時の感覚が面白いものであった。

書いた内容自体は何ら変哲のないものだ。毎日書いているとおり、日々感じた気持ちや日常の出来事を淡々と記しているだけ。文字数も最近の平均から比較するとやや少ない。さっぱりとした日記。

ただ、ざっと読んだ時に、何とも言えない初めての感覚を得た。確かに僕が書いた日記ではあるのだが、どこか他人が書いたような気がするのだ。あの瞬間、あの場所で、たしかにいた「僕」を外側から幽体離脱してみているような感覚。タイムマシーンに乗って、上から見ているような感覚。

「あの時」と、「今」は地続きで、僕も一人のはずなのに、文字に落としたものを見返すと、そこは切り離されて、独立したものとなっていた。日記の中で、「最近仕事の案件のリズムがよくない」と言及しているのだが、その中身を全く思い出せないことも相まって、あの時の僕との距離は縮まらないままであった。

所詮、人間が頭の中で考えていることなんてこの程度のものだ。どんなに悩み、悔い、怒ったとしても、その瞬間ありのままの感情を記憶し続けることなどできない。記憶できないどころか、書き換えられていることも多いだろう。それほど思考や感情というのは曖昧で可変的なものなのだ。

だからこそ、文字に記す行為は貴重だ。曖昧でフワフワしている感情・思考を「言語」という、最も明確・不可逆的な方法でその時間に閉じ込めてしまう。その後、自らの思考や感情、体や環境が絶えず変化していくなかで、そこに閉じ込められた言葉だけは、一ミリも動かずに鎮座し続ける。

文章を書くことは面白い。朝の総武線で気付かされた。この執筆習慣開始時には予見などしていなかったが、新たな発見、感情を得ることができてよかった。新たな習慣を獲得した副次的効果。

毎日同じ繰り返しを過ごすだけでは、この感情を経験することはなかったのは間違いない。日記執筆に限らず、範囲を広げていくことが重要だね。今後も意識的に新しいことに手をつけ、新しい感覚を得ることを面白がりたい。

この感情の整理も文章化だからできたこと。さて、1年後の僕が見てどう思うか。

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