見出し画像

福祉を目指すあなたに贈るぼくの物語3

ぼくが入学した高校は東大阪市立日新高等学校。
母親の薦めでこの高校の英語科に入学しました。

知らない人だらけで、はじめの内はずっと人見知りが発動していました。
入学してはじめの自己紹介の時に、自分は野球をやるのが好きという話をしたら後日担任が野球部に入る同級生とぼくを合わせて「明日、野球部の練習に連れて行ってあげて」とこれが僕の高校野球の始まりでした。

次の日、ぼくは体操服を持って友達に付いて野球部の練習用グラウンドへ。
ぼくの高校は、戦前に6回だけ甲子園に出たことがあるみたいなのですが、1941年以降は、一度もなくめちゃくちゃ弱い高校なのですが、野球部には学校のグラウンドとは別で専用のグラウンドがあります。

学校から自転車で20分?ぐらいだったので、学校へは自転車での通学でした。
ぼくは東大阪市金岡に住んでいたので、生駒山の麓に学校があったので、いつも自転車で1時間半ぐらいかけて通学していました。自転車で通学するようになったはじめはいつも一人でした。

野球部の練習2日目には、3年生の先輩がいらなくなった練習着をぼくのために持ってきてくれて初めての練習着にめちゃくちゃテンションがあがったのを今でも覚えています。僕は中学生で身長が止まっていて162㎝と小さな体をしています。先輩は170㎝ぐらいあったので、めっちゃぶかぶかでした。笑
野球部の練習に行くようになってからは、監督がほかの部員に「岩山と一緒に昼ご飯たべたり」と言ったようで昼ご飯の時間になると何人かが一緒にお昼を食べにぼくのところに来てくれました。
少しずつ仲良くなってきて、ある日グラウンドで八重尾(やえお)という同級生が居たのですが、その同級生に対してぼくが「やゆよー」と言ったのをきっかけに一機にみんなと打ち解けることができました。
今まで一人で通学していたのですが、普通科の2mぐらいの身長の野球部で同級生の重松(しげまつ)というのがいて、たまたま通学している僕を見つけて、それからいつも一緒に通学することになりました。それから毎日重松を起こしに行ってから通学するようになり、卒業するまでいつも一緒でした。野球部内で一番身長の高い重松と一番身長の低い岩山で、いつもペアになって練習していました。
そうそう1つ言い忘れてましたね。
ぼくのポジションはピッチャーでした。笑
別に野球のセンスがあったわけでも、特別うまかったわけでもなく、ただ初めての練習の時に、どこのポジションがいい?と監督ではなくコーチに聞かれて時に「ピッチャー!」と初心者のぼくは答えました。
この時、近くにいた先輩に「ピッチャーですやろ」と笑いながら言われました。たぶんこの時に年上の人には敬語を使うことを知ったと思います。
「ピッチャー」と言った時は野球部員全員に笑われした。汗
初心者でピッチャーやるの?といった感じだったと思いますが、当時のぼくはそんなことを全然気にすることなく次の日からピッチャー陣の練習に参加させてもらえることになりました。とにかくワクワクでした。
敬語以外にもう一つ野球部に入って学んだことがあります。それは【空気を読む】でした。
ぼくはそれなりに走るのが得意な方で、2日目ぐらいの練習の時に、グラウンドの外周を5周?タイムを計る体力テストみたいなのがあり、はじめは同級生としゃべりながら走っていたのですが、途中から「じゃペースあげるわ」とペースを上げて、順位を上げていくと「はーはー」とすごく息を上げた3年生の先輩(練習着をくれた先輩とは別)がいて追い抜こうとしたときに「空気読めよ!」と言われました。これをきっかけに【空気を読む】ということを学びました。
そんなこんなでぼくは3年間野球部として引退までやり続けたのですが、イ引退の日にみんなから言われたのは「お前は絶対やめると思ってた」でした。笑

こんなぼくの高校生活でもクラスにコミュニケーションが苦手な同級生がいて今となっては、障害があったんかなぁと感じています。

ぼくが障害福祉を目指すようになったのは、高校生の時でした。
きっかけとなったのは、【差別】を知った時でした。

障害のある人を見つけると、馬鹿にしたり、真似をしたり「ガイジ」と言ったりしているのを耳にしたときにぼくは「なんで同じ人間やのに分けられなあかんのよろ」と感じていました。
分けられのはおかしい!と思ったのがきっかけで、ぼくは将来、障害者も健常者も関係なく一緒に過ごしたい。一緒にして当たり前の世の中を目指したいと思い、障害福祉へ目指すようになったというか、障害福祉の仕事に就こうと思ったんだと思います。
思っただけで特別なことは一切しておらず、福祉について学べる大学を目指すことはありませんでした。ぼくはとにかく面倒くさがりで、友達に「どこの大学に行ったらいいやろ」と相談した時に「桃山学院大学ととかええんちゃう」と言われたのでぼくは桃山学院大学にいこうと決心するのですが、指定校推薦の一覧が教室に張り出された時に【太成学院大学】を見つけて、ぼくはたしかここの大学を言うてたなと間違った記憶を信じて太成学院大学を受験することになりました。当時は評定平均値2.9あれば受験できるとあり、ぼくは3.7あったので、受験でき、面接だけで無事合格。(偏差値についてはいまだによくわかっていません)
合格したことを、大学について相談した友達に報告をすると「太成学院大学?どこそれ?」と言われてこの時に始めて自分が受験した大学を間違えたことに気づきました。楽して大学に入れると浮かれていた結果ですね。

これがぼくの高校生時代。
そんなぼくが大学生に。

大学生の時は高校生の時みたいな青春を感じることはありませんでしたが、楽しく大学生活を送ることはできたと思います。

ということでまた次回!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?