雪の妖精
その日は都内では珍しく、一日中雪が降り荒んでいた。アスファルトは陽が昇る前からすっぽりと雪に埋まり、真っ白だった。太陽が少しも姿を見せないために空気は凍りそうなほど冷たかった。
それでも構わずに外へ飛び出したのは、まだまだ自分がランドセルに背負われているような子どもだったからだ。学校からの休校の連絡に跳んで喜んだ。風邪引くからという親の制止も振り切って家の近所の公園へ飛び出したんだ。
住宅街の真ん中に広々と構える公園は遊具も、球技が出来るスペースも備わっていた。近所の兄ちゃんたちがよくサッカーや野球をしていて、たまに混ぜてもらっていた。真っ白な世界の中で、遠くからでも公園にいる人たちの姿がはっきりと見えた。誰か友達がいればいいなと思いながら公園に入る。寒さのせいか、雪の降り具合のせいか人はまばらだった。大きな雪だるまを作ろうとしている歳の近い子どもたちが三人と、雪を投げ合いながら走り回る高学年か中学生の人たちが数人。それから……
「わ。」
近寄るまで気づかなかった、公園の隅の木の影にしゃがみこんでいるもう一人。気づかなかったというよりも、気づけなかった。肌も、髪も降る雪に劣らぬほどに白かったからだ。唯一羽織っているもこもこの黒いジャケットだけがその場に存在感を主張していた。
(びっくりした……。日本人かな……?)
目を凝らすと木の根元に小さな雪だるまを並べて遊んでいるらしかった。黒いジャケットが立ち上がり、俄に振り向いた。彼が少し色の入った眼鏡をしていることに気づいたときには目が合っていた。
「きれい……。」
気づいたらそう口にしていた。真っ白な肌は、血液の赤さがよく透けた。そして何よりも、その瞳の色だ。一瞬の横顔で見た裸眼の瞳が脳に焼き付いた。青ではない、どちらかというとグレーっぽい。でもグレーでもないような。雨が降りそうなほど重たい空が、まもなく夜を迎え入れようとするときの色に近い。だけど決してどんよりしているわけではない。川に足を踏み入れたとき、はっきりと水底に着いた自分の足が見えているときと同じ、透明さがそこにはあった。
男の子だ、と遅まきながら判った。ひょろっこいけど、身長は俺よりずっと高い。学年はきっと向こうのほうが上。だけど今まで一度も見たことがない。彼はぽかんとこちらを見つめている。
「あ、ごめん……。目がきれいだなと思って。あとかみの毛も。」
わたわたとしながら付け加えると一層彼は目を見開いた。
「……ありがとう。あんまり言われることないから……。」
彼はそこで初めて微笑んだ。
「え、こんなにきれいなのに?雪のようせいさんかと思った。」
生まれたときから八年間この街で暮らしてきて、その間たったの一回も彼と会ったことがなかったのだ。それがこんな大雪の日に、雪色の髪に雪を積もらせてたった一人で遊んでいる。よく見れば眉毛も睫毛も真っ白で、すぐにでもこの雪景色に溶けて姿を消してしまいそうだった。
「妖精じゃないよ、僕は壱彩(いっさ)。小野寺壱彩。」
彼はそう名乗って、自分の頭や肩に積もった雪を払った。
「いっさくん。あ、おれは中尾託望(たくみ)。二年三組の。……っていうか、いっさくんって丘小?見たことないんだけど。」
「いや、僕は若木(わかぎ)小。ちなみに五年だよ。うちからすぐの道路挟んで学区が変わっちゃうんだ。でもこの青瀬丘が家から一番近いし。」
青瀬丘はこのだだっぴろい公園の名前だ。丘小の子も他校の子も、託望の周りの子どもたちは、皆公園の名をそうやって公園を付けずに略称で呼ぶのが常だった。
「あと若木校区には若木小の向こうに皆がよく遊んでる公園があるから、あんまりこっちに来ないし。」
それを聞いて託望は首を傾げた。
「え、なんで?そっちに行けばいいのに。」
純粋な疑問をぶつけられた壱彩はちょっと俯いた。
「そうだね……。」
壱彩はしばらく黙っていた。気づけば壱彩にはまた先程払った分と同じくらい雪が積もっている。
「ま、でも遠いし。僕肌が弱いから元からそんなに外で遊んでるわけじゃないんだ。今日は本当にたまたま。」
壱彩がにぃっと笑って目を細める。睫毛が目に被さって、その白さがレンズ越しでも際立った。
「そっか、だからいつもは見かけないんだ。」
「へへっ、レアキャラでしょ。日差しとか明るいの、だめなんだよね。」
今も雪のせいで結構眩しいんだけどさ、と壱彩は苦笑いした。
「この眼鏡がまぶしくないようにしてくれてるんだ。」
「サングラス……みたいな?」
父親が車を運転するときに時々似た理由でサングラスをかけるのを思い出した。
「そんな感じ。目もあんま良くないんだけどなんか眼鏡かけてもそんなに見えるようにはならないんだよね、だから本当にサングラス代わりみたいな。」
「へー。」
眼鏡しても見えないなんてこと、あるんだな。
周りに眼鏡をかけている人がいないのでイメージが沸かないままに相槌を打つ。壱彩もそれを汲んだのか、そういえば、と話を切り替えた。
「たくみくんはなんで公園来たの?誰かと約束してたんじゃないの?」
「いや、べつに。雪だし。あそびたいなと思って。」
「そっか。ま、そういうもんだよね。丘小も休校なんだ、そりゃそっか。……じゃあさ、一緒に遊ぼうよ。」
「うん!」
お兄ちゃんが出来たみたいで嬉しくなる。ふと従兄妹たちと重なった。若木学区とはまた別の隣の学区に住んでいるので、しょっちゅう会う三兄妹だ。
(あれいっさくん小五ってことはこっちゃんと同い年なんだ。)
こっちゃん、林琴夏は三兄妹の長女かつ真ん中だ。優しくて三兄妹の中でも飛び抜けて面倒見が良かった。
こっちゃんも遊ぶときは、こんな顔で笑ってくれるな。お母さんじゃないけど、お母さんみたいな。友達なんだけど、他の友達とは違う。こちらも思わず笑顔になるような、安心してしまうあの表情だ。
「ねえ、いっちゃんて呼んでもいい?」
するりと口から滑り出た問いに、壱彩はこくりと頷いた。
「いいよ。」
「いっちゃん!ねえおれらもさ大きな雪だるま作ろうよ。」
「おれらも……?」
壱彩が不思議そうに訊き返す。そこでも作ってるから、とそう遠くない場所で雪だるまを作る子どもたちのことを指差しかけて、先程の壱彩の言葉を思い出した。
(そっか、こっからじゃ見えないのか。)
託望は下ろそうとしていた手で、もう一度遊んでいる子どもがいる方を示した。
「あ、向こうの方で雪だるま、大きいの作ってる子たちがいてさ。楽しそうって思って。」
壱彩が指の先を追った。人の影を認めたのか何度か頷いた。
「うん!」
雪をかきあつめながら、今観ているアニメや、はまっているゲームのことなどをひとしきり話した。
「あれさ、今度映画やるよね。」
というのは託望と壱彩が毎週金曜日に欠かさず観ているアクションアニメだ。
「やるね。ねえ、いっちゃんいっしょに見に行かない?」
託望がそう誘ったときには、壱彩の膝あたりまで届くほどの雪玉が一つ出来上がっていた。大きな雪だるまを作っていた子どもたちはとっくに帰ってしまっている。雪だるまだけがぽつんと静かに取り残されていた。
「ほんと、いいの。」
壱彩の顔がぱっと輝いた。信じられないというような表情で目を見開いている。託望はなんだか嬉しくなって力強く頷いた。
「うん!お母さんに聞いてみる。」
壱彩と一緒に二つ目の雪玉を抱えて、木のそばに置いてある一回り大きい雪玉の上に下ろす。
「でーきたっ。」
託望が誇らしげに手を叩いた。周りには託望が来る前に壱彩が作った雪だるまたちが健在だ。目的を果たすと急激に外気温が身に染みて身震いした。
「寒いね。」
託望が口を開くより先に壱彩がそう笑った。
「そうだね。」
名残惜しくてそれだけ言った。二人して黙ってしばらく雪だるまを見つめていたけれど、
「帰ろっか。風邪引くと、いけないし。」
壱彩が静かに呟いた。託望は黙って首を縦に振る。
公園を出て、分かれ道まで二人で無言で歩いた。時折白い息だけがふわっと現れては雪に紛れていく。
「またあそぼうね、いっちゃん。」
じゃあね、という壱彩に託望は大きく手を振った。
「うん、映画観に行かなきゃね。」
壱彩が小さく手を振り返す。
「おれ、いっつもここであそんでるからさ。まってるね。」
託望がそう言ったときには、すでに壱彩は背を向けて歩き始めていた。だけどはっきりと強く頷いたのを託望は見届けた。
「ばいばーい!」
その背中にもう一度託望は投げかけた。
雪が見せた幻のような彼と再会する日を心待ちにしながら。
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