始まりのゴールテープ
【書き出し固定:あれは平成の夏だった】
あれは平成最後の夏だった。
抱え込んだ資料の束が手から離れて床に舞い散るときと同じように、色褪せた記憶が静止画となって脳内を舞い落ちる。
熱っぽいそよ風に揺られる一面のひまわりも、君が差し出すあんず飴も、海辺ではしゃいで舞い上げた水しぶきも。
何でもないはずの記憶の一片がすべて、必死に伸ばす手をすり抜けていった。
「今年で最後だね。」
君が持つ残り一本の線香花火の火玉が静かに落ちたとき、君は今生の別れのようにそう呟いた。どんな表情でそんな台詞を言ったのか、君にとって“最後”とは何を意味したのか、何度も反芻した今でも分からずにいた。
言葉通り、平成という元号のことだろうか。
それとも無邪気に、夏と名付けられた日本で一番大きなお祭りをはしゃいだことが?
別れの言葉ではなかったはずだ、と言い聞かせる。現に今、年号が変わり、一年という歳月だけ人生を更新しただけで、大きく何かが変わったわけではない。
最後だと言われると人はどういうわけか感傷的になるらしい、と苦笑する。
普段なら素通りして終わる全てのことに何か大切な意味があるような気すらしてしまうのだ。
いつもどおりの帰り道、いつもどおりのアルバイト、いつもどおりの夜ご飯。
不意に無駄にしてきた時間が愛おしくなって、ゆっくり歩いてみたり、ありがとうを意識したり、噛み締めて嚥下してみたり。
なんだか惜しくて、スマホを出せばいつもの倍、シャッターを切ってみたり。カメラを首から下げた日には、ファインダーの向こうに覗くいつもと変わらない君の笑顔すら、もう二度と見ることのない特別なものだと錯覚した。
気づけばカメラフォルダーはそうと言われなければ分からない、ただの日常だらけだ。
しかしこれらはすべて、普段からそう出来るのならそうした方がいいに決まっていることばかりだ。
「今年で最後だね。」
なんてパワーワードだ。
この一言に、何を翻弄されていたんだろう。
人生を見つめ直すための呪文だったのだろうか。それだとしたら効果は絶大だ。この魔法ひとつで、見落としてきた、存在すら知らなかった大切なものに気づけた。そしてゲーム終了なんかじゃない、私たちは。
平成は終わったけれど、私たちの人生は終わっちゃいない。
もうすぐ、平成を越えた最初の夏が始まる。
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