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    鉄道員 と 特急つばめ

ダレかさんとナニかさんの花畑_No.006_


懐中時計(ウィキペディア)

お爺ちゃんの懐中時計は床柱

 ぼくの母方のお祖父じいちゃんは鉄道員。
 それも〈国鉄〉勤めというだけで、なぜかしら近隣のウケがチガう  らしいことが、幼な心にもうっすら感じられた。
 ただ、子どもたち憧れの運転手や車掌、駅長さんではなくて、職場は地味な保線区。縁の下の力もちだったけれども、古いセピア色の記念写真に見る姿は颯爽としていた。

 家にいるとき(家父長制度のもと)の、お祖父ちゃんの席は床柱とこばしらの前ときまっており。この床柱の上、高いところにはナゼか無粋な釘が一本、そこに銀鎖の懐中時計を下げ、帽子をかけてから、座布団に胡坐あぐらをかいて座る…まるで歌舞伎の所作だった。
 床柱の懐中時計は、スイスのロンジン。永年勤続の記念の品で、ぼくが初めて出逢った外国製品でもある。
 鉄道員らしく時間にはキビシい人で、遅刻などすると黙って拳骨でコツンとやられる、これがまた思わず顔を顰めるほどに痛かった。

C62蒸機のフードに輝く銀の「つばめ」マーク(ウィキペディア)

ぼくの旅立ち心に火をつけた…

特急「つばめ」の展望車(ウィキペディア)

 フケ(家出)癖から芽生えたボクの旅立ち心(前回5月10日記事)を、熱く育てあげてくれたのがほかでもない、この無口なお祖父ちゃん。
 湘南・藤沢にある母さんの実家から、京浜工業地帯・川崎の新世帯暮らしを訪ねて来てくれるようになると、ときどきは帰途に、初孫の姉とボクとを実家へ連れて行ってくれるようになり、この初めての鉄道旅行がなにより刺激的な愉しみになった。

 川崎から、京浜東北線の電車で横浜に出て、東海道本線の列車に乗り換える。このショートトリップがボクの旅の始まり。
 その記念すべきシーンをここに再現してみると…
 横浜駅で崎陽軒の「シウマイ弁当」を買ってもらい、普通列車が来るのをを待っていると、なぜかざわめくホームを揺るがして走りこんで来たのは特急「つばめ」。牽引する蒸気機関車、C62のフードには銀のつばめマーク(スワローエンジェル)が輝いて…乗客も外国人が多くて…「つばめ娘」に迎えられた横浜からの客たちが社内に入ると…まもなく汽笛一声…最後尾に見送る1等展望車には盛装の賓客…肖像みたいに佇ませて…
 こんな映画の1シーンみたいな光景を演出するのダ(注1)。
 ふるえる心を抱えたボクは声もなく、光る2本のレールをのこして走り去る蒸気列車の煙と後姿…晴れた空のもとボゥワ~ッと遠ざかった行くのを、見つめるばかり。

蒸機のいる故郷の風景

トロッコとポイント(転轍機)

ポイントと分岐するレール(ウィキペディア)

 こうして「旅」とボクとの出逢いが始まったときの印象は、ワクワクよりもドキドキ…しかもこの友だちは根っからの明るさのなかに、いつも寂しさの影をまとわせていた…のだった  けれど。それでも、なししろ…
 特急「つばめ」の展望車を横浜駅のホームに見送ってから、ぼくの〈旅立ち〉はグッと現実味をおびてきて。
 まず興味を魅かれたのが『時刻表』。駅に行くと切符売り場のカウンターには、たいがいヒモ付きのそれが人恋しげに置かれてあって、ページの端っこが  これが〈お出かけ見本帖〉だョとでも言いたげにまくれかえってた。
 『時刻表』の巻頭には色刷りの全国路線図が九州から北海道まで、掲載ページの索引も兼ねて載っており、あっちからも  こっちからも(おいでょ)と声がかかるようなのが無性にウレシかった。

横浜の駅弁「シウマイ弁当」(ウィキペディア)

 これも前回の記事で触れたことだけれど…京浜工業地帯の南武線(ぼくん家の最寄りは川崎から2つ目の矢向やこう駅)は電車線でありながら、近くの工場への引込線には蒸気が活躍し、鉄道車両の種類も多くみられる鉄道ミニ公園みたいなところ。
 錆びた古釘をピッカピカに変身させてくれた「いたずらレール」遊びの次に、ぼくたちガキんちょを夢中にさせたのが「トロッコ」遊び。
 運転手がいなくても鉄道を走らせることができる…小さくても鋼鉄の4輪の上に荷台の載ったそれには、玩具にはない重量感(そのクソ重さハンパじゃなかった!)があって、なかには保線の人たちが自転車みたいに漕いで動かせる珍タイプもあったり。

 もちろん安全のため、ふだんはブレーキがかかって固定され、車止めまで噛まされてあったのだけれど…滅多にはない奇跡的な幸運が子どもたちに微笑むことがあり。なにしろ相手は、子どもにはとても手に負えない重量級だったから動かせはしなかったが。仲間たちとトロッコに同乗して「右よ~し、左よ~し、しゅっぱ~つ進行っ」と声をかけ〈指差確認〉を真似れば、もう気分はバッチリ運転手。トロッコを木の棒杖やポンプ装置で懸命に漕いだり…帆船みたいに立てた帆に風をうけて快走したり…なにかの本に載っていた挿絵の世界に遊ばせることができた。

 いまも各地で人気を集める「トロッコ列車」には、生きものの鼓動・血脈へのノスタルジーばかりではない…純朴親愛の情感がそうさせる…そんな気がしてならない。
 ことにもボクは、朝一番の罐焚かまたきに息を吹き返す蒸機の汽笛一声とか、あるいは息も凍えそうな厳冬の夜更け…ポイント(転轍機てんてつき=レールの分岐装置は寒さに弱い)の凍結を防ぐのに焚かれる小さな炎とかには、たまらないほどの愛しさを覚えるのダ。
  ………
 後年。ぼくが主宰する〈旅の編プロ〉に、「トロッコ遊園地」を造れないだろうか…と、首都圏からも遠くはない地方の山もちの方から相談をもちこまれたことがあって。ぼくたちスタッフ一同、おおいに燃えて〈完成予想図〉付き企画を練り上げたのだ  けれども。
 待つことしばし…の結果は、「ざんねんがら、その費用には予算がまにあわず、もうしわけない」旨の返事。
 もしアレが実っていたら…まるでチガッた処世の展開になっていたかも…いまでもチラと振り返ることがある。


(注1)特急「つばめ」と横浜駅の「シウマイ」…「つばめ」という特急 
   (優等)列車の愛称は、国鉄時代の戦前からの由緒あるもの。戦後  
    1950年(昭和25)1月から東海道本線が全線電化される1956年(昭
    和31)11月までは、東京~大阪間を蒸気機関車C62が牽引した客車
    列車。同僚の「はと」と共に、機関車のフードに銀のマークを光ら
    せて走り。「つばめ」マークは、「スワロー・エンジェル」の愛称
    で親しまれた。全線所要時間は当初の9時間から電化時には7時間 
    半にまで短縮。豪勢な1等展望車は庶民憧れのマト、特急券の入手
    は困難をきわめた。いまも横浜駅名物の先頭に立ちつづける崎陽軒
    の「シウマイ弁当」の発売は1954年(昭和29)から。「シウマイ 
    娘」の手提げ篭から手渡され、陶器製のしょう油入れ「ひょうちゃ
    ん」にも人気があった。当時はお茶の容器も陶器製。

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