親の期待には応えなくていいし、夢があるなら追いかけるべきという話
つみかです。21歳の心情を赤裸々に語るなどしてみたいなと思い至って文字を書いています。
私が言いたいのは私はこんなに辛いとかではなくて、このノートは私の気持ちの整理のための吐き溜めです。
あまり見て気分のいいものではないかもしれないけど、読んでくれたらそれはそれで嬉しいです。
私はある離島に産まれました。
家族構成は父母私弟。
もともと父は土木関係のしごとをしていて、私が幼いころはそれなりにお金もあったのですが、確かそこが倒産するだかなんだかしてうちは貧しくなりました。
その後父は漁師になることを試みましたが、出航後3日で腰を痛めて帰ってきて、私の家は生活保護をうけるまでになりました。
私は幼いながらにウチが貧しいことをわかっていて、強請って買ってもらえるものと、そうでないものを理解していたので、私は親にとって大変都合のいい娘を演じていました。
うちは勉強に厳しくて、小学生のころは90点以下を取ると外に出されたり、「うちの子じゃない」と言われたりしました。酷い時は「市役所に里子に出す相談をした」とか言われました。それがこわくて私は勉強を頑張っていたし、いつも大人に褒められるように生きていました。
大人に褒められることが良い事なのだと純粋に思っていました。
ただ私には夢がありました。幼稚園生の頃から、CMで見た薬剤師さんが気になっていたのです。
薬剤師さんになるには勉強をたくさんしないといけないことはわかっていましたし、私は存外勉強が嫌いではない子供だったので、勉強自体は苦痛ではありませんでした。
しかも偉そうな子供だったので、クラスの男子に「私に文句言いたいなら身長と成績を抜いてからにして」なんて言っているような子供でした、何様なんですかね。
それはさておき、私が小学校高学年になると、母は私に「6年制の大学に通わせてあげることができない」つまり、薬剤師になることはできないと告げました。
私はその時どう思ったかまでは忘れましたけど、母が私に臨床検査技師になるよう告げたので、私の夢は臨床検査技師になりました。
それから中学生になりました。私は当時164cmと体が大きく、男子からからかわれる毎日に嫌気がさしていました。
そんな頃に数学の先生から鶴の一声がありました。「背が高くないとなれない職業もあるよ」と先生はキャビンアテンダントという仕事を教えてくれました。
英語が好きな私にとっては夢のような天職だと思いました。
その頃弟と2人きりで初めての飛行機での旅行をして、酔った弟にCAさんが優しくしてくれたことも重なって、私はCAになりたいと思いました。
正直私はその頃頭もよかったし、離島の高校の偏差値なんてたかがしれているので、私は本土の高校に行きたいと思っていました。
それ以上にとにかく家を出たいと思っていました。
というのも父は酒癖が悪く、いつも絡み酒で、母は上記のような教育スタイルの母だったのでとにかく息苦しかったのです。
それでも、外の高校に行きたいと言った私に母は「お金が無い」と泣きました
私も泣きました。苦しくて、悔しくて泣きました。
わかっていたはずなのに泣きました。
私はいい子だったので、お金が無いという親に反抗することができませんでした。親ががんばっていることをなんだかんだわかっていたからです。
それから私は勉強が出来なくなりました。
今までできていた勉強ができなくなりました。馬鹿らしくなって全てをほおりだしました、
どんなに頑張っても報われないことが悔しくてどうしようもなくなりました。
離島内の高校へ進学を決めて、私が全てを諦めた頃、
急にそれまで腰を痛めて働けなかった父が働くと言い始めました。
だから私は本土の高校へ行くことを許されました。ただお金が無い状況はそんなに変わらず、勉強していなかった私の学力はぐんぐん落ちていたので、私は喜ぶより先に振り回されることに怒りました。
この時正直に行きたい高校へ行けばよかったのに、私は親の期待という呪縛から逃れることができませんでした。
お金が無いので、母は私に資格をとって欲しがっていて、衛生看護科のある高校を進められていました。
その頃祖母が入院していたこともあり、祖母にも私が看護師になることを期待されていました。
寮もあるし、学費も安かったし、何より家から出ることができるので、私はその高校へ進むことに決まり、看護への道を歩むことになりました。
高校へ入ると思った以上に看護科はめちゃくちゃきつくて、准看護師と高校卒業資格の単位をとるためにほとんど夏休みも冬休みもありませんでした。
私はその高校へ入っても、CAになることを諦めきれていませんでした。
高校3年生になって進路を決める頃、私は担任の先生に「これから先の人生、また嫌な進路を進むと親のせいにしてしまうから、自分のやりたいことをやった方がいい」と言われ、確かにそうだなと思ったので、CAになりたい気持ちを母に話しました。
すると口論の末、母から私は「産まなきゃよかった」とまで言われて、それで私は母に見捨てられるのが怖くて反抗することがまた出来なくなって、予定通り正看護師免許をとるために進学することになりました。
進学してからしばらく、私は初めて恋人が出来ました。人生のトリガーというか、きっかけになったのは2人目の恋人で、彼は過去に心を病んだ経験のある人でした。
私は高校のときからずっと頭痛や吐き気、動悸、息切れ、めまいなど、多数の身体症状と抑うつ感に悩まされていました。
Twitterのレポ漫画などを見てはいたので、もしかしてこれは、心のアレ的なものではないかと薄々思っていて、思い切って恋人に相談しました。
「怪しいと思うなら受診したほうがいい」
その恋人の言葉に背中を押され、私は病院を受信しました。
ちょうど20歳になるころでした。
私は適応障害の診断をうけ、その日からお薬を飲むことになりました。
お薬を飲みながら恋人に死ねと言われて別れたり、それで病んだりいろいろありつつも、なんとか専門学校を卒業し、私はこの春から就職しています。
就職してからというもの、私の適応障害は悪化し、出勤が嫌で涙を流し、食欲は減りといいことがあまりありません。
私は思いました。やりたいことでもないのに、ずっと心をすり減らして何をしてるんだろう。と
私はずっと親の期待に応えていきてきて、結果心を病んでしまいました。
なかなか人に相談するタチではなかったのですが、悩みに悩んだ私は手当り次第に友人やら美容師さんやらに相談したら、美容師さんに「親に病気のこと話したら?」と言われました。
私は親に否定されるのが怖くて、適応障害のことを話していませんでした。
勇気をだして私は母に、適応障害であること、ずっと辛かったこと、本当は看護師ではなく目指したいものがあったことを話しました。
母は「そうなのかなと思ってた」と言いました。
私が精神を病んだことを責めたりはせず、母は謝ってくれました、謝ったからなんになるという訳でもないけど、お給料をもらうようになって、本当に実家がお金が無いことは理解したので、母のことを恨む気持ちはそんなにありませんでした。
お金が無い中でも資格を取らせて安心したかったのだと思います。実際、資格もなく宙ぶらりんになるよりはよかったです。
そして今、私は仕事を辞めようとしています。
入職から2ヶ月、たったの2ヶ月ですが、私は高校からの6年を通して疲れ切ってしまいました。
あの頃の私になにか言ってあげることができるなら、「親の期待に応えなくていいよ、親の評価だけが全てじゃないよ」だと思います。
見捨てられ不安がものすごく強い私ですが、これからの人生は、人の期待に応えようとせずに、自分のやりたいことをやろうかなと思っています。
ひとまず、実家に帰りたいと思っています。親とはもっと会話をして、わかりあえることもあるかもしれないし、早く家をでたぶん、コミュニケーションが不足しているところがあるんだと思います。
なんだかんだ書きましたが、私は今の人生をそんなに後悔していません。
資格取るまではがんばることはできたし、今までの人生を歩んでいなかったら出来ていなかった友達もいるからです。
書きなぐって修正も特にしてないので恐らくとても読みにくい文書ですが、ここまで読んでくださってありがとうございます。
人の期待を裏切ることって怖いけど、それでも見ていてくれている人っていると思います。
意外と人は人のこと見捨てません、だから
夢があるなら、追いかけるべきだと思います。
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