【志村けんのオナラに救われた男】

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【小説:志村けんのオナラに救われた男】(2020.10.8)

男は何日も部屋に閉じこもっている。
もう何日も窓を開けず、閉めきったままだ。
男は暗く淀んだ空気に包まれている。
男は何もする気になれず、ベッドで寝たままタブレットでYouTubeを見ながらダラダラと過ごしている。
今日も何もする気になれず、YouTubeを起動させた。
もう特に見たい動画が思いつかなかったから、おススメ動画をスクロールさせ手頃な動画がないか探してみる。
おススメ動画に、志村けんのだいじょうだぁ【公式】が出てきた。
“志村けん”この喜劇スターが、暗く淀んだ空気に包まれている男を救う事になる。

画面の中の志村けんは、まだ若くて髪の毛がフサフサしている。
走って登場してきて、動きに切れもある。
いきなり始まったのは「パイのパイの体操」
「パイのパイのパイ」と言いながら
志村けんは、女性出演者の胸を触るようなジェスチャーをする。
「チンチロリン」と言いながら
志村けんは、女性出演者に股間を突き出して笑顔で答えている。
健康に良いとは思えないが、楽しい気持ちになる体操が繰り返された。
画面が切り替わり、違うコントが始まった。
志村けんは、女性出演者をイヤらしい目つきで見ている。
マーシーとの掛け合いは、テンポが抜群に良い。
志村けんは、女性出演者の太ももを触っている。
桑マンが髭を生やしたまま、ツッパリ学生を演じている。
志村けんは、女性出演者の後ろから抱きついている。
石野陽子も松本典子も明るくコントに参加している。
志村けんは、女性出演者に囲まれて満面な笑顔だ。
志村けんを囲んでいる女性出演者の一人に目が留まった。
今映っていたのは伊藤智恵理じゃなかったかな?
伊藤智恵理は、昔のアイドルで特に売れていたわけではなかったが、大学時代の友人の思い出と一緒に、その名前は男の記憶に残っている。

大学2年の春休みに男は友人から誘われ、大学の図書館の蔵書整理のバイトをした。
彼は大学の近くにアパートを借りていたので、バイトが終わると彼の部屋に上がり込み、飲みながら夜中まで語り明かして、そのまま彼の部屋に泊まる。飲み過ぎで目覚まし時計が鳴っても起きられず遅刻して、小太りの図書館司書に一緒に怒られた事もあった。
蔵書整理のバイトは時給が良くて、仕事をさぼって本が読めたりと、とてものんびりしたお得なバイトだった。バイトが終わったら、再び彼の部屋に上がり込んで、飲みながら夜中まで語り明かす。気が付いたら二週間のバイトが終わるまで、ずっと彼の部屋に泊まっていた。
しかし、毎晩あんなに話していたのに、彼と何を話していたのか思い出せない。覚えているのは、彼が唐突に「伊藤智恵理が好きだった」と言った事だけだった。

また画面が切り替わり、違うコントが始まった。
志村けんは、女性出演者のスカートの中を覗きんでいる。
志村けんは、ベッドで寝ている女性出演者にキスをしようとしている。
志村けんは、女性出演者が食べたアイスを口に加えてニヤニヤしている。
志村けんは、女性出演者に囲まれて問い詰められている。
今度は動画を停止して、女性出演者を確認してみた。
やっぱり伊藤智恵理がそこに映っていた。
画像を停止していたら、タブレットに反射して男の顔が映った。
そこには、誰にも会わないからと髭も剃らず、締まりのない男の顔が映っていた。何とも言えない憂鬱な気持ちになり、あわてて動画を再生させた。
志村けんは、お決まりのフレーズを言う。
「そうです。わたしが変なおじさんです。」
志村けんは、ダイナミックに踊りながら、繰り返し「変なおじさん、変なおじさん」と連呼している。
男はまるで自分に向かって言っているのではないかと思えてきた。
動画を一時停止させ、ベッドから体を起こして、洗面所に向かった。
T字カミソリは何日も使ってなかったので、ほこりを被っていた。
替え刃が一つだけあったので新しい物に交換し、シェービングジェルをたっぷり顔につけ、肌を傷つけないように丁寧に髭を剃った。
顎の下など剃り残しがないか、何度も確認してから水で洗い流した。
水道から流れる水は冷たかったが、その感触がとても気持ち良かった。

動画を再生させると、また違うコントが始まった。
志村けんは、間の抜けた音のオナラをする。
「ブゥー、ピー…ブゥー、ピー…」男もオナラが出た。
プゥーとピーの混ざり合ったような間抜けな音だ。
志村けんのコントとそっくりな、間抜けな音のオナラだ。
男はオナラの間の抜けた音に、大声を出して笑ってしまった。
彼の部屋に泊まっている時も、同じように間抜けな音のオナラをして、笑いながら彼に怒られた事を思い出した。
そしてオナラが臭い。とにかく臭い。
何でこんな臭いのか?男は昨日食べた物を思い出してみた。
閉店間際のスーパーで半額になった“ハムカツ”、野菜も食べなきゃと思って買った半額になった“キャベツたっぷりのメンチカツ”、デザートは30%引きになった“あんドーナツ”……消化に悪そうな物ばかりだ。これではオナラが臭くなるはずだ。
オナラの臭さに我慢ができず、閉め切った窓を開ける事にした。
彼の部屋で泊っている時もオナラが余りにも臭さかったので、彼が笑いながら窓を開けた事を思い出した。
窓を開けると、勢い良く風が入り込んできた。
テーブルの上に雑然と重ねていた郵便物が、風に吹かれて部屋中に舞い上がった。
あわてて郵便物を拾い集めると、見覚えのない一枚のハガキがあった。
ハガキは写真家の展覧会の案内で、100人の名前が書いてあった。

知らない名前ばかりが並んでいると思ったので、ハガキを脇に置いて動画の続きを見る事にした。 
志村けんは、ウンジャラゲを踊り始めた。
間の抜けたイントロ、深いような、浅いような、ふざけた歌が流れている。
志村けんは、バカ殿、原始人など様々な衣装に扮装して踊っている
志村けんの後ろで踊っている一人の女性出演者に目が留まった。
また伊藤智恵理だ。
男はもう一度ハガキを見直してみた。
100人の名前の中に、彼の名前を見つける事ができた。
ハガキを裏返すと男の宛先が書いてある。
彼の文字だ。彼の文字は良く覚えている。
彼からは試験前に、サボった講義のノートを見せて貰っていた。几帳面で丁寧に書かれた文字は、あの頃と変わっていなかった。
そして、彼が暇さえあれば、写真を撮っていた事を思い出した。
男も暇さえあれば、彼と一緒に写真を撮っていた事を思い出した。
彼は男と違って、写真家になるという夢を実現させたのかもしれない。
彼からのハガキをもう一度見てみる。
今日が最終日だ。最終日は搬出があるため16時までと書いてある。男は時計を見たが、今からだと間に合わないかもしれない。
                                 
志村けんがズッコケて、動画は終わった。
動画が終わり暗くなったタブレットに男の顔が映っている。
髭を剃りサッパリした男の顔が映っている。せっかく久しぶりに髭を剃ったのだから、彼の展覧会を見に行く事にした。
最寄り駅まで歩いて行くと、男が働いていた居酒屋が見えた。
男はついこの間まで、ここで働いていた。新型コロナウイルスの影響はあったが店長と二人で何とか営業を続けていたが、決定的だったのは3月29日“志村けん”が亡くなったニュースが流れた事だ。
店の前を歩く人が目に見えて少なくなり、それまで来ていた常連客もその日を境にパタリと来なくなった。東村山市出身の店長は「けんさんも亡くなったから…」と言って、男に何も相談せず閉店を決めた。
すでに看板などは外され、次にオープンする韓国料理屋の看板に変わっていた。居酒屋と同じビルの二階にあったカラオケボックスも閉店していたが、まだ次の借り手は決まっていないようだ。
電車に乗ると、乗客は一人も乗っていなかった。誰もいない無人の車内、こんな光景はめってにないと思い、男はスマートフォンを手に取り、場所やアングルを変えたりして何枚も撮っていた。
彼と一緒に写真を撮っていた頃はスマートフォンなんてなかったから、アナログのカメラで撮影していた。彼は叔父さんから貰ったという年代物カメラを大事そうに使っていた。
会場に着いたが、もうとっくに終わっている時間だった。
すでに撤収作業も終わったのか、そこには誰もいなかった。
とりあえず入口まで行くと、ドアに鍵がかかっていなかったので、中に入る事にした。
作品は全て撤収され、誰もいない会場は静寂に包まれている。

会場の奥の窓に、小さく印刷された展覧会のポスターが貼ってあった。
近づいて出展者の名前を見ると、確かに彼の名前がそこに書いてある。
男はポスターに近づいて、スマートフォンでポスターを撮影した。
撮影した画像を確認する。
ポスターの画像を拡大させると彼の名前と彼が尊敬していた写真家の名前が書いてある。
画像ファルダにはポスターの写真とさっき撮影した無人の電車の写真しか入っていない。
いつから写真を撮らなくなったんだろう。
男は暗く淀んだ空気に包まれている。

男は大きなため息をついてしまった。
気が緩んだのか、それとも尻が緩んだのか、
「ブゥー、ピー…ブゥー、ピー…」
また、オナラが出た。
志村けんのコントのように、間抜けなオナラの音だ。
静寂に包まれていた会場に、間抜けなオナラの音が響き渡った。
「まだ、誰かいるんですか」ドアが開いた。
その先には、間抜けなオナラの音に、笑っている彼がいる。
そしてオナラが臭い。とにかくオナラが臭い。
彼は、展覧会のポスターが貼ってある、窓へ向かって歩いていく。
彼は、あの時と同じように、笑いながら窓を開ける。
窓の外から、爽やかな風が入ってくる。
男を包んでいた暗く淀んだ空気は、あっさりと吹き飛ばされた。

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