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人間が生きることに何の意味があるのか???Part2

 前回は何も意味がないのなら初めから生まれてきたこと自体が無意味だと私は思うというところまで書きました。

客観的に考えると少々極論かもしれないですが、この考えで今回の記事は書いていきたいと思います(笑)

まず一つ目に人間が生きていることの意味となると私の能力や考えでは見出すことができないので、やはり神や仏、菩薩などを信仰する宗教にすがるしか生きていることの意味は見い出せないと思うようになりました。
約2500年前にインドで生まれたガウタマ・シッダールタのように何か死を超えていけるような精神性や智慧、前世からの徳を積み重ねていける才覚があれば、彼のように瞑想をして仏の悟りを開き生きている意味を見出せるのかもしれません。

しかし、私は凡人なので前世がそもそもあるのか?菩薩や仏、神は存在するのか?死んだ後どうなるのか?何で人間に生まれてきたのか?が全く分からないので死を超えていけるような悟りを自分の力で切り開いていくのは不可能でしょう。

そうなると必然的に菩薩や仏、神は存在するのかは分かりませんが、それらを信仰するしか死んだ後どうなるのか?や生まれてきた意味や生きている意味は見い出せないという結論になりました。

二つ目にどんな宗教を選択して信仰するかですが、これも完全に私の直感で決めたもので約2500年前にインドで生まれ仏の悟りを開いたガウタマ・シッダールタが弟子に口伝していった仏教に関心を持ちました。
その後、仏教がそれぞれの宗派に分岐していって体系化された浄土真宗に私が生きている意味を見出そうとしました。

浄土真宗の基本となる浄土三部経というお経の一つ「仏説無量寿経」に私が生きている意味が書かれていました。

それは、阿弥陀仏という仏の第18願「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりは開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」

ここで念仏というのは南無阿弥陀仏のことで、南無阿弥陀仏と言えば阿弥陀仏の国である極楽浄土に死んだ後?に生まれさせるという内容になります。

今回はそこまで分量を多くしたくないので18願の内容は大雑把になってしまいますが、ここに私が生きる意味を当てはめると私自身は南無阿弥陀仏と言って死んだ後に極楽浄土に往くための命であることに合点がいきます。

宗教らしく胡散臭そうな感じですが、私のような凡人が生きていく意味を見出すためには南無阿弥陀仏の願力に従う他にないなと思っています。

ただ、浄土真宗の信仰というものは一般的な宗教の信仰と変わっていて自分から阿弥陀仏という仏の18願の念仏を信じるのではなく、南無阿弥陀仏そのものが私自身を信じてくださり生きている間に極楽浄土に往生するという願いを決定させるという特徴があります。

これを浄土真宗では御信心と呼ばれ、南無阿弥陀仏を聞いたままが御信心であるという聞即信という性質を持っています。

細かいところの説明はかなり省略しましたが、私が生きる意味は浄土真宗で話されている南無阿弥陀仏という念仏を言い生きている間に極楽浄土に往生させて頂ける身になることがまさしく私自身が生きている意味だったと今では思えます。

また、念仏を言い自分で聞いて御信心を貰った心境ですが今までは死んだ後に極楽浄土に往生するという考えでしたが、より厳密に考えると私が生きているということは今まさに死につつあるということにもなっていますので今まさに極楽浄土に往生しつつあるという考えに変容してきた感じがあります。

ここら辺は今後の経過観察をnoteに書いていきたいと思います。

ただ、仏教の観点から私を観察すると毎日当たり前のように何の罪悪感もなく命を奪い、自分の欲望のままに生きている自分が往生しつつある身にさせてもらえるなんて、天地がひっくり返ってもありえん話だなと思っています。

駆け足になりましたが、今回はここまでになります。








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