13日の金曜日に、思い出しました!

2024年令和6年9月長月13日金曜日、今朝は、虎の門にある医療機関への、定期通院の2日目です。
4週間毎に、検査と、点滴治療の為に、2回通院しています。

今朝は、一昨日から、新たに、滞在しているホテルからの通院です。
江戸通りから、都バスに乗ります。東京駅八重洲南口行きのバスに乗り、小伝馬町で降ります。東京メトロ日比谷線に乗り、虎ノ門ヒルズ駅で下車します。
東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅の駅員さんの、ご支援を受けて、地下鉄の乗降をスロープ板を置いて、お手伝いをお願いします。通勤ラッシュのお忙しいお時間に、有難いことです。
心から感謝申し上げます。

虎の門にある医療機関への通院は、高校に入学して直ぐに始まりました。それまでは、原宿にある、難病専門の病院に、通院していました。しかし、手術することを、その専門病院の主治医から言われました。

父からの遺伝の病です。父も、この難病を、私が、赤ん坊の頃に、入院していました。そして、父は、手術する事なく、寛解していました。そこで、父は、父の主治医に、相談して、虎の門にある、医療機関を紹介されました。その時から、こちらの医療機関とのご縁が、始まりました。
その難病が寛解して、新たな難病に、罹患しました。

2001年海の日に、交通事故受傷しました。

頭蓋骨を11センチ骨折、
硬膜外血腫、
頚椎、脊椎、腰椎、打撲、捻挫、左足の腓骨骨折しました。

昏睡4日、入院5ヶ月、自宅療養6ヶ月でした。

足の再手術で翌年入院しましたら、朝の回診で、胸に、凝りが見つかりました。乳癌の疑いで、細胞針、骨シンチ、等々検査始めました。
翌日の消灯時間少し前に、昨日細胞針した医師が、三人部屋の私の部屋にやってきました。他のお二人のいらっしゃるところで、私に、
『検査の結果、class5でした、来週、水曜日、全摘ね』
と、おっしゃいました。
『検査結果出揃わないで、来週全摘というのは、納得いきません。未婚で、30代ですよね。そもそも、今のお話は、いわゆる、告知というものですよね。
消灯時間直前に、三人部屋で、おっしゃるのは、いかがなものでしょうか?』
と、私が、話しましたら、

『俺の言う事を聞けないやつは、退院だぁ~!』
と叫ばれました。

そこで、私は、
『因みに、あなた様はどういうお立場から、そのような事をおっしゃるのですか?』

と、お尋ねしました。

『俺は、乳腺外科の医長だぁ~!俺のいうこと聞かない奴は、退院だぁ~!』
と叫ばれました。

同室の女性のナースコールで、看護師さんがやってきました。そして、元々の難病でお世話になっている主治医に呼ばれて、今後の私の乳癌の治療についての事を、相談にのって下さいました。

主治医は、まずは、不適切な告知を、なさった乳腺外科の医長の言動を、謝罪して下さいました。

整形外科から、乳腺外科、そして、元々の難病の科に転科しました。

難病の主治医の采配で、セカンドオピニオンを、16箇所に取りに行かせて下さいました。

光線労働者と、製薬会社、医療機関の乳癌患者に対する、言動、対処等々かなり人権無視の扱いでした。
モルモットと同じ扱いでした。
患者という個人の体質や、基礎疾患等々考慮して、私個人の唯一無二の大切な命という扱いをして下さる医療機関は、ひとつだけでした。

自分の大切なモノについて学ぶ機会となりました。

そもそも、交通事故は、青信号で横断中の私にトラックがぶつかりました。
私は、横断し始めた記憶しかありません。

近づく、飲料水の搬送のトラックについては、見た記憶がありません。

2001年海の日の、交通事故が臨死体験1回目、です。
2003年2月の化学療法1回目に、アナフィラキシーショックで2回目の臨死体験でした。

2004年に、化学療法の副作用で、喘息になり、リウマチを発症しました。

喘息の咳で肋骨折れて、3回目の臨死体験しました。

ダイハード3なオンナと友人は、私を名付けました。

あれから、23年経ちました。

2024年の、シルバーウィークの13日の金曜日に、2001年7月20日からの、有難い修行のはじまりの記念日を、思い出しました。

私の人生の過ちを見えない存在から、教えて頂きました。有難い記念日です。

引き続き、精進します。

有難い記念日から、一生懸命、匍匐前進、全身全霊、精進あるのみです。

楽しみながら、艱難辛苦味わい尽くします。

エンジョイ!
















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