LEONはロリコン映画なのか?〜三船美佳さんとマチルダ
※かなり前に書いた記事で全然タイムリーではなくなってしまいました
性的同意年齢引き上げの議論から、10代の少女と中年男性の恋愛の有無が話題になっています。
このトピックで私が思い出したのは、三船美佳さんと、映画「LEON」です。
三船美佳さんは16歳の時に24歳年上の高橋ジョージさんと結婚したそうで、
当事はテレビでもラブラブな様子を見せつけて、おしどり夫婦と言われていました。
理想の夫婦としてパートナー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれたそうです。
しかし三船美佳さんが30代の時に離婚となりました。
原因は高橋ジョージさんのモラハラと言われていますが、高橋さんにとっては離婚を持ち出されたことは青天の霹靂だったそうで、テレビで真っ白な顔で未練を語る姿が印象に残っています。
映画「LEON」は家族を失った12歳の少女マチルダが、大人の男性の殺し屋レオンに恋をして、共に復讐を果たすアクション映画です。
大ヒットした人気映画ですが、マチルダを演じたナタリー・ポートマンは、大人になってからLEONについて「今見るとあの作品はとても不適切。現代の視点で見ると褒められない部分がたくさんある」と語っています。
この2人の女性の変化について自分なりに考えてみたくなりました。解釈したいと思います。
私自身、中学生の頃、好きな芸能人はみんな30代や40代のおじさま。
憧れるのはいつも年上の人でした。
10代の少女が父親のような年齢の大人の男性を好きになる気持ちはよく分かります。
その気持ちには嘘はないし、心から報われたいと思って恋愛しているのも真実です。
三船美佳さんも最初は本当に幸せだったのではないかと思います。
テレビで見ていたあの惚気た笑顔が嘘だったとは思えません。
しかし自分が30代や40代になった時、大人の側に立って、自分の身に置き換えた時に、この年齢で10代に手を出す大人はやばいということに初めて気がつくのです。
少女の頃、なんでも知っていて、頼り甲斐があって、車もお金も持っていて、知らない世界に導いてくれる大人の男性が素敵に見えるのは当たり前です。
しかし男性側が「相手は何も知らない子供だから、常に自分を尊敬してくれる」ということにあぐらをかいたままでいると、女性の方が大人になり、互いの精神年齢が縮まって来た時に、その尊敬は失われ、この歳の大人が10代の私に手を出してたのか、とそのヤバさキモさに気づいてしまうのです。
年上側が尊敬され続けるためには、その差が縮まらないくらいずっと成長を続けなければなりませんが、人間の精神的成長は死ぬまで右肩上がりではなく、30代あたりから緩慢になり、昔は大きく感じていた歳の差も、歳をとるほど差を感じなくなっていく気がします。
ですから大人になってから結ばれた歳の差カップルならば、最初から精神年齢の差が小さく、成長によって急激に気持ちが冷めるということが起こりにくいのではないでしょうか。
はるかに年下の少女なら年上を尊敬してくれるという理由で成立している関係は、そこにチートが存在している、やはり搾取であり、女性は成長するにつれて精神年齢が追いつき、そのことに気付いて、かつての恋人だった年上男性が嫌悪の対象となってしまうのです。
そしてLEONです。
大人の男性が12歳の少女に愛され生活を共にするという、少なからずロリコン男性にとって夢のある筋書きの映画なのですが、ナタリー・ポートマンも自分が大人になって映画の中の自分が世の男性にどういう目で見られていたかを理解するようになり、同じような居心地の悪さを感じてしまったのではないでしょうか。
しかし、実は私はLEONという映画が大好きで、10代の少女の頃も、10代の少女を搾取する大人の気持ち悪さが理解できる中年になった今も、何度見ても号泣してしまうのです。
監督のリュックベッソンはガチロリコン臭がして、マジ気持ち悪いと思っているのですが(リュックが脚本を書いたLEONの初期稿ではレオンとマチルダがセックスする描写まであった)
この映画にはロリコンでなければ生み出せなかったであろう名シーンがあると思っていて、
それはマチルダがレオンに愛の告白をするシーンです。
12歳のマチルダは、家族を殺された自分を保護し、命がけで守ってくれた孤独な殺し屋のレオンに、いつしか恋してしまいます。
そしてある日、お化粧をしてドレスを着て、レオンに自分の恋人になってほしいと精一杯背伸びして決死の告白をするのです。
ここでまともな正しい大人なら「自分は大人で、君は子供だから付き合うことはできない」という断り方をするのが普通でしょう。そしてマチルダは傷つくことでしょう。
しかしレオンは違いました。
今まで誰にも話さなかったような、初めて人を殺してしまった時のことをマチルダ に打ち明けて、涙を流しながら「こんな自分では良い恋人にはなれない」と断るのです。
レオンはマチルダを子供ではなく対等な人間として見て、自分では相応しくないと、愛ゆえに告白を断るのです。
マチルダは静かに納得します。
リュック・ベッソンは、ナタリー・ポートマンやミラ・ジョボヴィッチの演じたようなイノセントな少女に幻想を抱き、救いを求めているロリコンなんだと思いますが、ジャン・レノは当時すでに子供がいて、保護者の立場であるしっかりとした大人の男性です。
故にレオンというキャラクターはロリコンには見えず、気持ち悪くありません。
リュック・ベッソンの浮世離れした少女への幻想を、地に足のついた父親であるジャンと、本当にまだただの子供であったナタリー・ポートマンが無邪気に演じきることで、マチルダとレオンの関係は、恋人でもなく親子でもない、性愛のにおいがしない、搾取もない、高潔な絆として絶妙に完成したのです。
その純粋さは、大人の男性に憧れていた少女の頃の自分を、映画の中で守り救ってくれました。
だからあんなにもあんなにも涙が出るのです。
少女の私が欲しかったのは搾取ではなく、レオンのような愛だったのです。
アメリカでの試写会ではマチルダの愛の告白は観客から大ブーイングを受け、劇場公開の際カットされてしまいました。
アメリカでは子供が被害を受ける事件が身近に多すぎて、グロテスクな現実と切り離して映画を楽しむのは難しかったのかもしれません。
現実におぞましい事件や搾取があるせいで、LEONという傑作が、主演女優にすら不適切なな映画と評されてしまうのが残念でなりません。
周りの大人たちは、ナタリーがこの映画を撮った後に傷ついたりすることがないように、もっと繊細にケアすべきだったと思います。
スターになれたんだからいいでしょ、と放り出されては、その後、自分の精神と身体を守るのは大変だっただろうと想像します。
しかし私が不思議に思うのは、あれだけ銃乱射などおぞましい事件が起こっているのに、アメリカ人は映画の中でガンアクションを楽しんでいることです。
あのような事件が起きた後にガンアクションを見て気分が悪くならないのか、
そこは切り離せるのが不思議に感じます。
一方、日本の映画やドラマの時代劇では、チャンバラアクションが定番になっていますが、今の世の中で日本刀を振り回す人は1人もいません。
ここは完全に、映画と現実の切り離しが成功して、私たちは娯楽としてチャンバラを楽しむことができています。
私は映画の中や個人の心の中には、どんな愛も存在していていいと思っています。
どんなおぞましいものも、グロテスクなものも、心の中に持っている限りはなんの罪でもありません。
それを映画などで表現した場合もそこに現実の被害者はいません。
ただ、娯楽として楽しむには、現実と距離がなければなりません。
現実の被害者がいなくなった時に初めて
フィクションの中で、銃も、少女の愛も、自由に輝くのだと思います。
そんな日が来たらクリエイターはもっともっと自由になることでしょう。
私はその日を夢見ています。