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キメねこを読んで〜いつか外れる頭のタガのこと

「キメねこの薬図鑑」という本を読んだら、今までぼんやりと考えてきた、ドラッグ、統合失調、宇宙と神みたいなものについて、何か繋がりそうな気がしたので書いてみます。
※違法薬物経験はなく、精神疾患、宗教について限定的な知識しかない者による、個人的見解です。

子供の頃のこと


「キメねこの薬図鑑」はかわいい猫ちゃんがさまざまな薬物をキメまくる、恐らく作者の体験を描いたと思われるドラッグレポート漫画です。
私は一度も違法薬物をやったことがないし、精神疾患の診断を受けたこともありませんが、なぜかキメねこのドラッグ体験を読んでいると「知ってる」という感覚が湧いてきます。
思い出すのは子供の頃のこと。
私は小学校に全く馴染めず、集団行動ができませんでした。
理由の一つとして、実は10歳くらいまでしょっちゅうトリップしていたのです。
キメねこがLSDを体験した時の描写に「布団のシワ目を落とすとまるでグランドキャニオンのように見える」シーンがあります。
子供の頃の私は年中この状態でした。授業中でも自分の服の皺に目をやると、無限に続く山脈に心奪われてしまい、授業など上の空になってしまいます。インスタントコーヒーの瓶の中を覗くと茶色の砂漠の中に行ってしまいます。湯船に漂わせた手拭いが深海に住む巨大生物に見え、湯冷めするまで風呂から上がれません。
特に惹きつけられるのが幾何学的な模様で、じっと見ていると自分の体が小さくなって模様の中に吸い込まれてしまい、出口のない迷宮を彷徨うことになります。
こたつ布団に描かれていた花柄のことをよく覚えています。私は緑色で書かれたその花をキャベツだと思っていて、家族が団欒している最中、しょっちゅう1人でトリップしてしまい、無限に続くキャベツ畑の中で道に迷っていました。
その状態になると周りが見えなくなり、誰かから声をかけられないと戻って来られず、気がつくとかなりの時間が経っいるのです。
子供の頃はトリップするだけではなく、自分の記憶ではない風景が頭の中に沢山ありました。戦前の街並み、馬に乗っていた記憶、洋風の木造の建物、緑の草原など。そしてそれに似た風景に出会うと初めてきた場所なのに強烈に懐かしい!という、いわゆるデジャヴ体験もしょっちゅう起こしていました。
そしてその中には「人間ではなかった時の記憶」みたいなものもありました。
うまく説明できないけど、上も、下も、右も、左も、過去も、未来もない、とても狭いけれど果てのない真っ白な部屋の中にいるような、無限に続く白い紙の上の黒い小さな点になったような感覚…。
当時家にあった振り子時計の機械的な音を聞いていると、よくその人間ではない状態になってしまいました。自分というものがなくなって、ただの無になってしまう感覚はとても恐ろしく、親に「ご飯だよ」とか声をかけられると正気に戻ることができて、ホッとしていました。
あまりなも人間の知覚とかけ離れた無機質な感覚体験から、当時の私は「自分の前世は感情とか知能のない虫だったのかもしれない」と考えていました。
今にして思えば、この世に来て間もなかったので、現実を生きていくための脳みそのタガがしっかりハマっていなかったんではと思います。
そのタガは、宇宙から自分を分離し、他者と自分を区別し、自我を形成して、現実というものに個を縛る、人間を人間の形にする型枠なのです。
子供の頃まだ出来たてふわふわの私の脳みそは、風に吹かれて揺れていたのでした。

ゾーンに入る


大人になるにつれ、トリップやデジャブの体験は少なくなっていきましたが、自分で空想した世界に没入することがやめられず、私は物書きになっていました。
小さなインスピレーションが閃くことは何度もあり、それを頼りに創作をしていたのですが、初めての大スランプの時、私はいわゆる「創作の神が降りる」「ゾーンに入る」という体験をします。
締切が翌日に迫るのにアイディアが全く出ない。連載なのに話の続きが一切浮かばないという状態になり、切羽詰まった私は神社に開運祈願に行きました。
スピリチュアルや宗教が苦手な自分が、その時だけはとても素直な気持ちで心を開き、続きが書けるように祈りました。
その晩のことでした。いつものように机に突っ伏して、進まない原稿に悶々としていると、突然映画が始まるように、5分前まで思いつきもしなかったストーリーが映像となって大音量で頭の中に流れ出したのです。
全てが目の前にあるように鮮やかで、触れられるほど近く、声も聞こえ、私は子供の頃幾何学模様にトリップしていたように、自分の作り出した世界に完全に入り込んでいました。
過去に自分の書いたあのシーンはこの伏線だったのか!と勝手に話が繋がり、この続きはどうするの?と考える暇もなく、次の展開がなだれ込んできます。
私は圧倒され、ただ流れ込んでくるものを受け止めるだけの器になり、目の前で起きていることを必死で書き留めるしかありませんでした。
その状態は一晩中続き、私は今まで感じたことのないような高揚感に包まれていました。
いつもなら1ヶ月かかって書く量の原稿が、朝には完成していました。
それは「物語とはこうやって書くものだったんだ」という覚醒でした。

それから仕事をするときは、その状態にまでトリップしないと満足できなくなりました。
何日も徹夜して頭から煙が出るほど振り絞っても何も降りてこないこともある一方、風呂に入っている時など、何の前触れもなく頭に物語が雪崩れ込んで来てトリップ状態になることもあります。
どうすればその状態になれるのか長年考えていますが、こうすれば必ず降りてくるという法則は見つけられません。

いわゆるゾーンに入っている間は眠らなくても平気になります。
眠ろうと思っても興奮状態ですぐ目が覚めてしまうし、食べ物も喉を通らなくなります。
最低限の水分と栄養だけ取って、自動書記のような状態で、書き続ける手は止まらず、休憩しようとしても座っていられず、部屋の中をうろうろ歩いてしまいます。
日常生活ではありえないような興奮と高揚感に包まれ、世界のてっぺんから全てを見渡しているような全能感があります。
頭や体の中は流れ込んで来る物語に乗っ取られた状態で、自分の人格は吹き飛んでしまいます。集中しすぎて自分という存在を忘れてしまう感覚です。この時の自分を誰かが見たら、体が透明になっているんじゃないかと思うほど、集中すればするほど自我が消えていくのです。
窓拭きをした後みたいに世界がクリアに見え、視力も上がるような感覚があります。
自分の部屋にいるのに現実感がなく異世界にいるようです。
不思議なことにやたらトイレが近くなり、頻尿になります。
ゾーン状態は1時間で終わることもあれば、1週間ぶっ続けでトリップしっぱなしだったこともあります。
そして、それは突然終わります。
物語が体から抜けていく感覚があり、見渡すといつも通りの近眼の視界、いつもの自分の部屋にいる感覚になって、そのタイミングで布団に入るとやっと眠ることができます。
へとへとに疲れ切っていて、数日眠り込むこともあります。
そして目が覚めた後は、また何のアイディアも出ない、なぜ書けたのかわからない、という状態に戻っています。

読んでわかるように、この体験は覚醒剤などの麻薬体験によく似ています。
「降りてくる」「ゾーンに入る」という状態は、作家だけでなく、音楽家、画家、役者、お笑い芸人、アスリートなど、多くのクリエイターが共通して体験しているようです。
薬物によって脳が凄まじい集中力を発揮したり、快楽や恍惚を感じられるということは、元々脳はにはそれだけのポテンシャルが備わっているのです。
薬物を使用するのは、理由もなく快楽を先払いで引き出すようなものなので、代償も大きくなるのではないかと考えます。

幽霊が見える人


知り合いに幽霊を見たことがあるという人が3人います。
2人は精神疾患があり、もう1人は認知症を発症した晩年の祖母です。祖母の幻視がひどく、寝たきりのベッドの上で、小人やもう1人の自分や様々な見えざるものといつも一晩中対話していました。
幽霊体験の多くは神経疾患や半覚醒状態による幻覚であるという脳科学者の論もありますが、疾患や薬物や寝惚けることで脳がバグったり、タガが外れることによって、今見ている世界とは違う世界にアクセスしたという可能性も考えてみると面白いです。

自分と世界の境界線


「キメねこ」では大麻と幻覚剤をキメすぎて、「世界と自分の境目がわからなくなってしまう」というシーンがあります。
これとそっくりの体験談を「奇跡の脳」という本で読んだこたがあります。
著者であり、脳科学者でもあるジル・ボルト・テイラーはある日脳卒中を起こしてしまい、壊れかけた脳の知覚によって非日常的な体験をします。

「どこで自分が始まって終わっているのか、という体の境界すらはっきりわからない。なんとも奇妙な感覚。からだが、個体ではなく流体であるかのような感じ。周りの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、体と他のものの区別がつかない。」

脳内出血がひどくなり、正常な思考が途切れ途切れになる中、自分という個の識別ができなくなったジルは、激しい痛みに苛まされると同時に、宇宙ひとつになったような平和と幸福感に包まれます。

「私は生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構成物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。幸福な恍惚感に宙吊りになっているような、仏教で言うならば涅槃(ニルヴァーナ)状態」

そして、ジルは宇宙にまで広がってしまった自分という存在を、壊れかけ、苦痛に呻く小さな肉体に押し戻すことはもう不可能だと感じます。

「わたしはもう、ここにいないはずなの。もういかなくちゃ!エネルギーも、わたしもどこかにいっちゃったの。神様、いまわたし、宇宙とひとつなの。ずーっとつづく流れのなかにとけちゃった。これまでの人生と、さよなら。このゆうきてきないれものに入ってるよわい心は死んじゃって、ちせいのある生きものにはふさわしかないのに。わたしの魂は自由に、しゅくふくのかわのながれにのるはずなの。ここから出して!」

脳の機能を著しく損傷してしまい、言語障害により全く話せない状態にまでなるも、ジルの脳機能は8年のリハビリを経て復活し、脳卒中体験を本にするまでに回復しました。
一度完全に脳のタガが外れて、宇宙と一体になった所から帰還した貴重な体験談です。

自分と他者との境界が曖昧になる感覚は、統合失調症にも見られる症状です。
自分の思考と他人の思考の区別がつかなくなるので、自分の考えた事が周囲に伝わっていると感じて盗聴を疑ったり、テレビや通りすがりの人が喋っていることなど、自分に関係しているように感じてしまいます。

これらの体験もやはり、他と自分を区別するための脳のタガが、疾患によって外れてしまった状態と考えられるのではないでしょうか。

夢と頭のタガ


統合失調の人の妄想や幻覚の体験談を見聞きすると、やはり「知っている」という感覚があります。
一番近いのは夢の中の記憶です。
夢の中では、芝犬に乗って宇宙人と戦うとか、支離滅裂な行動を本気でやっていても疑問に感じません。
海を泳ぐ50メートルの真っ白な金魚や、お互いの顔を貪り食っている双子や、この世にない色をした花も見たことがあります。
脳が思いつくままに、支離滅裂で縦横無尽で、現実という制限がない夢の世界では、誰でも頭のタガを外した状態なのではないかと思います。
目が覚めると、意識は自分という個に押し込められ、現実というルールに拘束された世界に戻ります。

ここまでを纏めると
脳にはそもそも強い快楽を感じたり、過集中して普段以上の能力を発揮するポテンシャルがある。
夢や薬物や脳疾患により、脳のタガが外れると、トリップや幻覚などの超体験ができる。
しかし脳のタガが完全に外れると、自分と世界の区別がつかなくなり、意識が宇宙と一体になり、現実生活を営むことは困難になる。
恐らく死ぬ直前にはこの状態に至る。

宗教と頭のタガ


このタガが外れた状態を、ドラッグではなく宗教で目指している人たちもいます。
以下は昔ネットで読んだ瞑想による体験ですが、元記事が見つからず、記憶だけで概要を書きますと、
投稿者は瞑想により自分の意識を体から離脱させることにハマっていました。
自分の意識が体を抜け出し、地球や太陽系を飛び出して、宇宙まで広がって行く感覚を毎日楽しんでいたそうです。
そしてある日自分の意識が宇宙の外にまで届きそうになった時、突然
「来るな!」という神のような声が聞こえ、それ以上先に進めなくなり、気がつくと精神病院に入院していた、というようなものです。

キメねこではLSDの100倍の効果があると謳われる「アワヤスカ」なる薬物の体験談もあり、薬物の評価として「神への直通回線」「そのトリップは地球脱出速度を超え別の銀河まで至る」「宇宙的恐怖」との記述があります。
アワヤスカはブラジルの先住民が宗教的な儀式に用いていた薬物らしく、元々様々な麻薬が、古来よりシャーマンや医師によって宗教儀式や治療に用いられて来た歴史があります。

不思議なことに、どんな国のどんな文化にも宗教と呼べるものがあり、アマゾンの奥地の未接触部族にも、なぜか神と宗教は自然発生し、人は食べるように、眠るように、当たり前に神に祈りります。
無宗教の自分であっても、名前のついていない、自分だけが祈る神が、心の中にあります。
もしかしたら私たちは、頭のタガに記憶を消されているだけで、神とは何か、初めから知っているのではないでしょうか?

キメねこの巻末に道元著の『正法眼蔵』の内容が紹介されています
『まず、禅や仏教は現実世界は苦しみであるという前提から出発します
その苦しみの原因はさまざまですがざっくり言うと「執着」であると説きます
ならば「執着」を捨てねばならぬが、今度は「執着を捨てたい」という執着が生じてしまう
要は「執着を捨てる」という目的で座禅した時点でその目的は絶対に果たせないことになる
したがって「何の目的も持たずに座禅する」という只管打坐なる実践が生まれた
神などおらず目的もなくひたすらそこにあるがまま山や川がただそこにあるように』

私はこれを読んで「やっぱり宗教ってバカみたいだな」と思ってしまいました。
一切の執着も目的も持たず、ただ存在しているだけなら、石ころや植物、生まれつき脳や意識を持たないものと変わりません。
そうなりたいならただの屍になればいい。
もっと言えば、生まれてこなければいい。
生きていながら、なぜわざわざ生まれてこなかったのと同じ状態を目指すのでしょうか。

頭のタガをはめて生きている意味


人生は苦しすぎる。時には死んでしまいたいと思うほどに。
しかしその苦しみ含めて、生きていないと味わえない体験です。
生きているうちに、宗教やドラッグなどを通じて、神や宇宙へ近づこうとするのは「人生」を放棄する現実逃避です。

子供の頃のトリップ体験は、私にとって心地よいものというより少し怖いものだったので、生きている間に頭のタガを外して、もう一度あの世界に行ってみようとは思えません。
私の周りでは、宗教やドラッグを使って自主的に頭のタガを外そうとした人も、脳や精神の疾患によりタガが外れてしまった人も、みんな幸せそうには見えません。

ジルボルトテイラーの脳出血の体験の他にも、脳外科医が髄膜炎により脳が機能しない昏睡状態の時に体験した「プルーフ・オブ・ヘヴン― 脳神経外科医が見た死後の世界 」という本を読んでも、その他数多く語られている臨死体験や、死の直前にエンドルフィンのような脳内麻薬が大量に放出されることからも、死ぬ時、人は「自分」や「人生」というタガから解き放たれて幸福感に包まれると考えられます。
全ての執着を手放し、存在すら消滅し、生まれてこなかったのと等しい状態に還っていくのでしょう。
それこそ神や宇宙に近づこうとする人が求める状態であり、それが救いであるならば、試行錯誤しなくても、自ら早まらなくても、全ての人に救いが待っていることになります。

私はなぜか「生まれたくてこの世に生まれた」という自覚があります。
反抗期には「産んでくれなんて頼んでねえ」と吐きたくなるし、時には死んでしまいたいほど辛い時もある、そんな時でも「今人生味わってんなあ」と、客観的な視点がどこかにあり、このゲームをプレイヤーとして楽しんでいる自分がいます。
ゲームにはルールがあります。ルールや制限のある世界にログインしなければ体験できないので、私は「人生」を体験してみようと、頭にタガをはめ、宇宙から個というものに分離し、この世を味わいにやって来ました。
頭のタガは「人生」を体験するためにに必要な「装置」なのです

無垢な心で生まれ、たくさん夢を見て、
期待して、裏切られ、
美しいものに心焦がし、悍ましいものにまみれ、
人と自分を比べては妬み、憎み、嘲り、欲情し、攻撃し、死にたい気持ちや、殺意に苛まされ、時には愛を与え合い、成功し、幸福に浸り、それを失う恐怖に震え、
欲と執着にまみれた人生を存分に謳歌しています。

私は今日もこの世界を浴びています。
頭のタガが外れて、いつか恍惚と共に無に帰る日まで。


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