たまには大さじ一杯の幸せを
(2017年に書いた文です。)
僕にはあと10年かかってもできないかもしれないけど、希望としては「完璧な文章」を自分自身で生み出したい。
でも、なにかがひっかっかって、いつも未熟な文章になってしまう。
発売日に又吉直樹の「劇場」を買って、読み進めているところなのだが、彼の文章は素晴らしい。
調味料で味を整えられ、香辛料で印象深く、そしてちゃんと愛情を持って作られている。
それは彼の人間性と経験値に起因しているのだなと、彼をテレビで見たときや彼の小説以外の文章に触れたときのことを総合して、思った。
彼の崇拝する、太宰治や芥川龍之介は正直読んだことないけど、この二人の書く小説の主人公はきっと精神的に揺れやすく、葛藤を重ね、自分と社会、というか自分と自分以外の者や物や現象との折り合いをつけるのがとても苦手な、自分自身との折り合いもなかなかつけられないような人なのではないかと想像する。
「劇場」の主人公のような。
そんな人たちの物語を読むのは、僕自身がとても勉強になるかもしれないと思う。
太宰や芥川ではないが、去年、夏目漱石を初めて読んだとき(ほんとに恥ずかしながらそれは漫画化された本だったんだが)感銘を受けた。
こんな表現がこの世界にはあるのだな、と思った。
だから又吉が大好きな太宰と芥川はもっと凄いのだろうと思うと、逆に手に取りがたくなっているが、必ず読んでやる。
完璧な文章はないのかもしれない、完璧な絶望がないように。(村下春樹がこのようなことを言っていた)
しかし、素晴らしい文章というのは小説の中でお目見えするものだと思う。
僕も稚拙だが小説を一度書いたことがあるのだが、その作業は自分の中でとても、人生にとって大事な体験となった。
また、書いてみたいと思う。
その小説に自分が愛せる文章を少しでも多く残したい。
そのためにたくさんの小説を読もう。他にもたくさんの表現を味わおう。
しかし、優れた表現に出会ったとき、僕は大きな喪失感を持つことが多々ある。涙が止まらなくなり、なかなか歩き出せなくなることがある。
そんなとき、大さじ一杯の幸せを想像してみようと思う。
それは僕の人生をミックスジュースのような素晴らしい味にしてくれるかもしれないと、思うのである。