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木村敏『分裂病と他者』について 「存在するとは別の仕方同士」の禅問答
木村敏『分裂病と他者』を再読。これがとてもおもしろい。
木村先生は初めて留学した際に西田幾多郎全集を持参し、留学先での日本語の読書が全て西田だったらしい。母語で可能な唯一の対話相手が西田という特殊な期間の影響は計り知れなく、時々木村敏が喋っているのか木村敏を借りて西田が喋っているのかよくわからないことになっている部分もある。人類学者の岩田慶治は戦地に道元の「正法眼蔵」を持参し、「この生死は、即ち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり・・・」と繰り返し唱えながら戦場を駆け抜けたとのことだが、特殊な環境下で限られた言葉に触れ続けると、思想が内側から染み染みに憑依して、自分の身体を借りて喋り出すような形になる。
三章「自己と他者」より、主体性の創発をめぐって引用されている禅の公案に注目したい。『碧厳録』での仰山慧寂と三聖慧然という二人の高僧が交わす問答のやりとりである。
仰山が三聖に向かって、互いに相手の名前は周知であるにもかかわらず問う。「汝、名はなんぞ」。三聖は咄嗟に相手の名を奪って答える、「慧寂」。名前を取られた仰山は「慧寂はこれ我」と返したところに、三聖は改めて「我が名は慧然」と名乗り返し、仰山はカカカと豪快に大笑いしたという話である。
木村は、この一連の問答について西谷啓治の指摘に言及しながら自他の成立機構を踏まえて「絶対的な主体と主体との出会いに本質的な契機に含まれている重要な契機を扱ったもの」(p.129)という見方をしている。
「仰山と三聖はともに揺るぎない絶対的主体として相対時している。ところが三聖が仰山から名を問われたということは、彼の絶対的主体性が名実ともに疑問に付されたということである。三聖の自己の能記面は、その瞬間、だれであってもよい無名の人の能記面として中に浮いてしまう。能記面を奪われた所記面、自己への収斂を禁止されて、元来の無限定で純粋な自発性に止められ、自他未分の状態でやはり宙にただようことになる。」(木村敏『分裂病と他者』, pp.130-131)
ここでいう自己の能記面と所記面とは、自己の動詞的作用であるノエシス面と名詞的現前態であるノエマ面と言い換えることができる。訳語に忠実になるのなら、シニフィアンとシニフィエでもよい。前者が「こと」であり、後者が「もの」である。
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つまり、三聖が「名前を問われる」ということは、ノエマ的に定位された自己が改めて問い直されるということで、同一律(A=A)の忽然の暴露である。
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本来自明なところの「A=」のその先に回答するという行為を通じて、積極的な同一性への収斂が求められる。その際、一瞬浮かび上がってしまう不安定な「A=・・・」をして「だれであってもよい無名の人の能記面として宙に浮いてしまう」と言われるのである。言い換えれば、不意を突かれて「私が私として私する」ところの自己限定先を見失う。
「そこで今度は、三聖が相手の仰山の名を奪い取って自分の名として名乗る。最初の仰山の問いによって三聖の自己が解体し、能記面を失った所記面が宙に迷った時、すでにこの所記面は二人のいずれの能記面のもとにでも収斂しうる帰属不定の状態になっていたのである。
あるいは、自己の所記面はそのまま自他のあいだの所記面でもあったということから言えば、三聖の側の所記面はこの瞬間に純粋に二人のあいだの所記面にまで戻ったのだと言ってもよい。だから、ここで三聖が相手の旗印を奪い取って仰山の名を名乗ったのは、この無所属のあいだの所記面をたまたま三聖自身の場所において仰山の能記面へと収斂させただけのことであって、だからそれは《三聖が三聖であることの自然である》(西谷啓治)」(同上, p.131)
他なるものと出会い、一瞬自己限定の鎖が解除され、ふっと足元が揺らいでひらひら堕ちる。そこから何か大きな力、例えば「自然」あるいは「それ」と呼ぶほかないような力に三聖未然の生命がぼよーんぼよーんとバウンドする。優しく受け止める大地の感覚はまだ誰の所有も制約も受けておらず、純粋なる二人のあいだの共通の場所である。次の瞬間、大洋そのもののようなスプリングボードのしなりを受けて、誰のものでもない「あいだ」はたまたま、その時その場では三聖自身の場所において仰山の能記面へと収斂したり、あるいは仰山自身の場所において三聖の能記面へと収斂したりもする。その違いはあってないようなもので、ないようであるものである。
「A=B,C,D,E・・・」
この短いやり取りの中に、フリーフォールのような、あるいはオイルタイマーで揺れる色水のような、ぷかぷかふわふわ自己限定の浮き沈みのあぶくが楽しげに賑やかに動き回っている。
またそれが、非常に軽やかでなめらか。そしてユーモラス。息のあった連弾をするような具合で、自他相互の自己限定の飛沫が波に乗って跳ねる。
ちなみにレヴィナスの『存在の彼方へ』の第4章「身代わり」の冒頭にあるツェランの詩「私が私であるとき、私はきみである」も、こういうことだと思う。ただ、こちらはすごい日陰で湿っぽい。昔はこのジメジメクヨクヨした感じがたまらなくて共感していたけど、色々本を読んでいるうちに自己嫌悪をバネに超越していくような動機がなくなってしまった。以前はどちらかというと「結ぼれとともに解け」の「解け」のカタルシスティックな相に共鳴していたが、「結ぼれ」の方も含めて構造全体を極めてポジティブな意味で中立に見ることができるようになった。神秘体験に耽溺せずに、あえて自分の言葉で語ろうとする努力がある思想を「絶対無界隈」と捉えているが、「解け」に過剰に入れ込むのはなんというか、「存在者キャンセル界隈」という感じだと思う。ちゃんと読めていないのだが、シモーヌ・ヴェイユも後者な気がする。何はともあれ、開き直って大の字になっていられるのは健康的である。
仰山と三聖の問答に戻る。
三聖が相手の仰山の名を奪い取って他者の名を自分の名として名乗ることを、「三聖が三聖であることの自然である」と言い得るのはなぜかというと、二人が同じ「あいだ」を共有し、互いが互いの存在をおのずから根拠づけあっているからである。「私」が純粋に「私」である時、「私」は「あなた」であってもかまわない。逆に、「あなた」が純粋に「あなた」である時、「あなた」は「私」であってもかまわない。その上で、「私」は「私」であり、「あなた」は「あなた」である。「あいだ」を貫く即非のリズムは、「即」で両者の隔たりを無化して同一性に還すと同時に「非」の効果で差異の方向へ弾き返す。
禅は日常性を重視する立場を取るけれども、仰山と三聖のようなやりとりも、我々の日常の些細な対話の中で営まれることがあると思う。とりわけ雑談。
季節の話、天気の話。今感じ取られるものごとのようす。合間合間で「それ以上」の目配せが香る気がする。去り際には相手の身体をいたわる。思うに、「存在するとは別の仕方同士」で言葉を交わすことは、考えているよりもむずかしいことではないはずだ。
木村敏の分裂病論では「自己の個別化の危機」が根源的な病理の背景にあると述べられている。先の例で言えば、三聖か仰山かという自他の区別が生じる手前の未分化なところ、「二人のあいだの所記面」から三聖は三聖の、仰山は仰山としての固定的なノエマに自己が収斂、つまり自己限定しきれない。そこでの自己限定に要するエネルギー量の統制とコントロールがうまくいかない状態を「自己の統合が機能失調に陥る疾患」と考えることもできる。
ただし、そのような都度都度の自己限定それ自体が構造的な脆さや不安定さ(すなわち、実存蝶番=)を内包し、むしろ構造の「あそび」を主体の柔軟性として生きることが、自己の主体的特権性を成り立たせていることは重要である。
「自己が絶対的な主体であるということは、自己が自らの所記面であるところの元来無限定・無差別な根源的自発性に確実に根をおろし、この自発性を自己の相のもとに生きているということである」(p.132)
すなわち、自己の源が共通の「あいだ」にあり、そこから毎瞬間限定を成し遂げているという構造だけ取れば、それば健常者であろうと病者であろうと同じである。
決定的な違いはその経験が「自己の相のもとに生きている」かどうかで、自己限定の途上で、十全な「私」もないままに他者が混入、撹乱、奪取されることに病理が生まれる。未熟な主体には、仰山と三聖のやりとりのように「自己限定の浮き沈み」の波に乗る余裕などない。他者に名前を奪われて実存を吊られることは、そのまま未形成な主語の崩壊を決定づけてしまうのである。
木村のいう「こと」と「もの」はハイデガーの「存在」と「存在者」に対応している。まず、ハイデガーのいう「存在」、ザインそれ自体は人称性をもたない。存在論的差異それ自体を自己の相のもとにやりぬくことで、非連続の連続として「私」が編まれる。その意味でノエマ的自己は作用の結果である。内的に閉じた水準においても、常に関係は項に先立つ。
「存在そのもの、存在することそれ自体は、けっして一個の存在者ではなく、「私のもの」でも「彼のもの」でもありえない。現存在が《そのつど私自身がそれである存在者であり、その存在はそのつど私のものである》ことが可能になるのは、現存在が本来無人称である存在それ自体を「そのつど私のもの」として引き受けるという形で、存在と存在者とのあいだに関係が生じた場合のみである」(p.174)
三聖が他者である仰山の名を名乗ることは西谷曰く「三聖が三聖であることの自然である」。この「自然」に、木村は「身軽な自由さ」と「差異の相関項としての能記面は本質的に軽い」(p.132)という性質を読み取る。瞬くたびに切り替わるあらわれは、身軽で自在なのである。差異の相関項、つまり「私ーではないものーではないもの」の記述可能な様相一つ一つは羽毛のように柔らかく軽い。
「自己は他者とのあいだで自由自在にあいだの場所での主導権を交換することができる。つまり、自己の場で他者を実現させたり、他者の場で自己を実現させたりすることができる」(p.132)
「自己の場で他者を実現させたり、他者の場で自己を実現させたりする」という表現は楽しい。自己限定円錐に落とし込んでイメージするなれば、破線○が結ばれた瞬間、気泡のように弾ける。その残像がわずかばかりに尾を引いて、ただ観測者の心象風景としてのみ、絵が見えるような感じ。あやとりで、両手を合わせて開くたびに、「ほうき」「四段はしご」「東京タワー」へと形のあらわれがパッパッと魔法みたいに変化していくのにも似ている。開けば存在が自己し、閉じてまた開くと存在が他者し、また開けば存在が四段はしごし、次の瞬間には存在が東京タワーする・・・という場所=自己の収縮連鎖にときめく。
さまざまな存在者が実現する「場所」としての人称について、レヴィ=ストロースがインタビューで語っていた言葉が思い出される。
「私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受け身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です」(レヴィ=ストロース『神話と意味』)
このような自己観は非常に親しみがわく。中沢新一さんも言っていたが、レヴィ=ストロースってやっぱり仏教徒なのだと思う。仏教徒というか、ものごとの受け止め方が必然的に仏教的にならざるを得ない体質というか。それは非常に基本的な「自己の成立」という単位に如実に現れる。
レヴィ=ストロースも「結ぼれであり解け」を地でいくタイプだった。
「無所属のあいだ」がたまたまこの場所においてレヴィ=ストロースという能記面へと収斂した程度の自意識だが、ほとんど、というか全くオロオロしていない。単なる通路に情報が吹き抜けていくのを淡々と書き留めるような仕方で神話論理という大著を書き上げている風である。本来「色即是空」を体現する場所が自己であるとはいえ、どうしても肉体的なまよいの源泉となる「色」に愛憎なかばしたり、「空」にあこがれたりするのが人間である。しかしながら、彼は人類が、地球が、宇宙が「色即是空」であることを透き通しに見切ったうえで「色」とか「空」とかの諸相にすらいちいち反応しないような、そんな感じを受ける。
西田は「我々の自己とは世界が自己において自己を映す、世界の一焦点たるに他ならない」述べているが、ここでいう「一焦点たるに他ならない」ものが「ものごとの起こる交叉点」である。出来事が生じる器に出来事が投げ込まれては過ぎ去ってゆく。そのとき、慣習と癖で内容が方向づけられていく場合もあるが、自己とはその一定の「方向づけ」が少しばかり像を結んだようなものではないか。
もっとも、体調を崩したりして、自己の成り立ちのままならなさに直面すれば誰しも交叉点人間になる。先日インフルエンザにかかった際、悪寒のせいで自分の内側と外側の温度が刻一刻と変わってゆくのを意識した。普段、自分の内臓の温度と皮膚の温度は、身体ひとつの「表面」と「裏面」をぴったりと覆っているはずだが、そのときは内と外が離反しあう別物のように感じられて、そのままさけるチーズのように身体がベロンと剥がれてしまうイメージをした。表が裏になり裏が表になるように、捻れてそのまま蒸発してしまうような身体のゆらぎのことを考えていると、放射される線がなすつぶつぶ・とびとびの輪郭それ自体に意識が変な形でめり込み、自分の画素数が粗くなってゆく感じをおぼえた。
また、郡司ぺギオ幸夫さんのいう「やってくる」もこれだと思う。
交叉点人間であることは「やってくる」呼び込み装置みたいになることともいえる。
実存のスタンスが圧倒的に受け身にならざるを得ないわけだから、日々色々「私ーではないもの」がやってきてしまう。よって「私である」ということを維持するためには、それを常に二重否定的に切り返す必要があるので、「私」は「私でないというよりかはむしろ私」程度に、寸分の油断も隙なく油断と隙だらけになる。郡司さんのいう「ズレ・スキマ・ギャップ」である。
「やってくる」には、ただただのほほんと過ごしていてもダメで、受け身に徹する構えが重要なのだという。郡司さんは「肯定的矛盾(どちらでもある)」と「否定的矛盾(どちらでもない)」を両立させるというが、これは「AかつnotA」「AでもなくnotAでもない」を開放してしまうことである。二項対立のプログラムでロボットのようにテキパキとスマートな判断を下す、つまりは「分けて選ぶ」理性的近代人としてはもう完全にダメすぎでグズグズな状態をあえてやりに行く。選ばない。選べない。選ぶところの我とかそういうのをガンガンにフランベし、極限まで希釈して薄く薄く飛ばす。あらがわず、かといって屈せず、現象が去来する通路に徹する。全面的に図であることから退いて、背景色に溶け込む。しかし、完全に地になりきってしまうわけではなく、あくまで人間の地肌が見えてしまっているくらいにして、風景のまだらに紛れ、五感を研ぎ澄ませてじっと控える。ただし、大きく見開いたまなこは透徹し、冷静である。価値判断をせずに、世界が開くはじまりから閉じる終わりまでをじっと見る。いや、見るというのはあまりにも過剰で、「ただ映す」のである。
レヴィナスは「身代わり」において主体は「意味」になるという。この「意味」とは「映す」というあり方に近いのではないかと思う。無私とか没我とかいうといかにも抹香臭い感じだが、純粋な「意味すること」とはイデア的なものを鏡のようにただ「映す」というどこまでも受動的なあり方に究極するのかもしれない。
仰山と三聖の問答を思い出す。
たとえば、互いに「意味」そのものとして映し合う様子を「意味が意味において意味づけ合う」とか「互いが互いの根拠になる」と言い換えたらなかなか美しいのではないかな。
「(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)」(宮澤賢治『春と修羅』)